春の雪の刈谷田川

2019-03-29 | 日記

         

昨日の朝の写真。寒い朝だと思ったら雪が積もっていたのだった。今朝なんかも霜が降りていてひんやりの空気だったが、このところ大きな雷鳴もあったりして気象が穏やかではないようである。でも、僕はこういう冷めた緊張している空気をおいしく思う。玄関前の植え込みに、水仙の青い茎がかたまって抒情している。もうすぐ花をつけるに違いない。そして咲いた可憐な花は、誰も訪れない僕の家の玄関の春の夜の微かな明かりになるだろう。尊きものは、小さきものの白昼のランプの如き取るに足らない生命。風景、記憶、忘却。刈谷田川の朝の川べりに雪が白く濡れていた。

                      入口の踏段に
                      石に刻まれた若き恋人の

                      抱擁の中から苔のさがり
                      黄色い菫の咲く
                      春のせつなさ  [ 西脇順三郎全詩集「旅人かへらず」より ]

 


本日、積雪あり

2019-03-24 | 日記

          

昨夜はどうも寒いと思ったら、今朝は雪がこんなに積もっていた。まだまだ降るんですね、こんな時期になってもね。それで今日は一日家に籠っていた方がよさそうで、ランチは熱いそばでも食べよう。
お彼岸中なので、今朝も早くに親戚が仏壇にお花を持って来てくれたのだった。車の通った跡が、神社の方へ墨画の龍の曲線を描いて、面白い。「龍曲線」と言ってもいいかもです。雪は余計なものを隠して、“ 余白の美 ” なるものを表現してくれる、昼時にはもう消えて行くだろう春の一瞬の風景画、「瞬画」である。写真の撮り方もあるが、僕はどうもいい加減なものしか撮れなくて、ただ目の前の光景にバカチョンのシャッターを押すのである。もう少し上手に撮れたらいいと思うのですがね … 。

           

この写真も、同じ朝の時間の、室内から撮ったいつものロケーションである。昨日まではすっかり融けていた雪だったが、今朝は雪が田んぼをスッポリ覆ってしまった。田んぼの顔がこれでまた引っ込まされてしまったから、カエルの出番も一日くらい遅れるかも。
そして、やはり玄関のチャイムが鳴って、「早くにすみません。遅くなって申し訳なかったですが、うちのばあさんが借りていた傘を返しにきました。お礼にお醤油です。」「そりゃ、どうも。」 白い地に青色の水玉の、母が使っていた傘だった。僕はすっかり忘れていたのだったが、いつかの雨が、青い水玉の忘れた記憶を思い出させてくれたのである。降る雪の向うに、母がこの傘を差している … 。

                      風景、記憶。白いセーターを着て母がいる  

 


『詩學』 第一號

2019-03-20 | 日記

                 

先日、友人から二冊の『詩學』をいただいた。そこで、ネットで検索していたら、ここに掲載した創刊号があった。それもやはり東郷青児の表紙画である。このところ東郷青児の随筆集を読んでいるが、ユニークな文体で「女」の話が書かれていて ( 画家だけに、描かれている、とでもいったほうがいいかも知れない ) 大人の女の中に羞恥の少女が住まって、そして少女の感性は既に密売の花売りである、というようなことをである。ところで、昭和22年8月30日発行 ( 岩谷書店 ) のこの雑誌は、巻頭に堀口大學の詩「老雪」を置いている。ここではこの詩を引用しないが、ページを括っていると “ いいなー ” と思う詩に出会ったのがこの詩だった。それをここに紹介しようと思う。 城左門 ( 1904-1976 ) の「失題」である。

                   木の葉のそよぎ、水のせせらぎ
                   雜草の小さな花、滴る水音

                   小鳥のさへづり、飛ぶ影
                   夕方から降り出した雨 ……

                   道草をしたり、雲を眺めたり
                   午睡を貪つて大欠びしたり

                   人との約束はなるべく避けて
                   明日の豫定など精々、立てず

                   足りる足りないを氣にかけず
                   酒があつたら遠慮なく醉ひどれて

                   うつとり暮さう、悔いなく生きよう
                   一日を惜しんで ―― 古陶を撫でるやうに

                   ああ、朝が来る、日が暮れる
                   樂しいではないか。

こう言うふうに「一日を惜しんで」生きたいものである。「古陶を撫でるように」丁寧な暮らしを暮らして行きたいものである。そして、春のふくらみに山野の雪もほとんど融けてきたのである。明日は一日、春のサンチマンを「うつとり暮そう」と思う。

 


春の雪と「明るい女」

2019-03-17 | 日記

          

          

つい先日の雪の朝。掲載するのが遅くなってしまったが、ここに上げておけば、こういう日もあったかと思われて、その記憶を呼び戻すにはいいのかも知れない。最近はどうも、いつの天気がどうだったかなんて、どうも思い出すことが困難である。だから、用がなければ思い出そうなんていう力技は、僕はなるべくしないように最近は心がけているのである。無駄なことはあんまりしないようにしなければならない。何故と言って、そういうことを思えば思うほどに落ち込むことになるからで、自信を無くすからで、そういうことはやっぱり体にはよくないのである。従って、思い出せることばかりと付き合った方が体にもいい訳で、これも一つの健康法になるに違いない。

僕の友人、著名な文士だが、若い頃、ある女性と戀仲になつて諸所を散歩した。ある日、場末の八百屋の前を通つた時、その戀人がつかつかと店に這入つて一山五銭の胡瓜を買つて「でも、あんまり安いんですもの」と少しはにかみながら新聞紙にくるんだ大きな荷物を小脇に抱へたさうである。無論僕の友人は彼女と面白可笑しく遊ぶ意味だけの戀愛を感じてゐたのだから、彼のロマンチズムは一山五銭の胡瓜によつて完然に破られて了つたさうだ。然し、この話を聞いた僕は彼が感じた恥しさを少しも感じないどころか、一種の樂天的なユーモアを彼女の行動に感ずるのである。僕が彼だつたら一山五銭の胡瓜を買ふ彼女を見て、遊びの戀が眞物の戀に變つたかも解らない。(中略) 此處のところは一概に云へないけれど、卑しくないと云ふことが気取り屋の若い男には随分大切だ。能動精神を持つてゐて、それを巧みに包んでゐててきぱきと齒切れよく、今日を明るい人生に塗り替へることの上手な女。顔や體は人々のこのみで千差萬別だらうが、理知と感情の綾が上手に織り込まれてゐる顔。

この文章もやはり東郷青児著『カルバドスの唇』から、「明るい女」の一節である。掲載した写真とは何も関係ないが、雪の朝であろうと晴れた明るい一日の始まりは本を読んでいても、ましてやこの本のように古い本であってさえ新鮮な気持ちになるのである。僕の中で、天気と古い本が共時するのである。類似性と言ってもいいと思うが、関係性のない二つの事象が僕の中で、時空を越えて共鳴しあう。時間や空間の中にも知らず「理知と感情の綾が上手に織り込まれてゐる」のである。

 


東郷青児著『カルバドスの唇』

2019-03-11 | 日記

               

『カルバドスの唇』はグラフィック・デザイナーとしても人気を博した画家・東郷青児 (1897-1978) の随筆集である。昭和11年10月20日に、かの昭森社から発行された本である。掲載した絵は本書の扉にある。若干カラーが掛かっているようだが、どうだろう。こういう線描を “ モダン ” とでも言うのだろうと思う。実にデフォルメされた裸婦であるが、そのおしゃれさと言ったらこれは申し分ない程で、艶めかしさの中に繊細があって、その繊細さの中にもコケットリーな現代性が、そうですね … オシャレなのである。僕は、改めて東郷青児のデザイン・センスにゾッコンになっているのである。そしてこの本であるが、やはり文章も人を引き付ける独特の文体が “ モダン・エロティック・オシャレ “ である。以下、その文章の欠片である。意味がつかめないかも知れないが紹介してみることにする。

「 何かめしあがる?
「 ぢゆねぱふあん
「 お菓子は?
「 のん、めるし
「 ぢや、なに?
「 おちちよ、カルバドスいれた ……
 さうだ。あなたは數分後、又は數十分後、あなたに求めるだらうところの彼のくちづけを更にエフエクテイブならしめるために、アスターの燒賣 (しうまい) と、梅月のお汁粉を敢て斜眼視すべきだ。カルバドスはあなたの唇に七月の夜のさわやかさをもたらす。
そして彼は囁くだらう。
「 あなたの唇はシンガポールの味がする 」

あなた方はまづ戀愛を把握する事によつて現實の方向を知り、現實の方向を知る事によつてふたたび戀愛の眞價に味到するのだ。
 やがて一山十銭の馬鈴薯があなたの戀愛に闖入して来る時が來たら、現實の中にふくまれた戀愛感覺の「ペルセント量」を定量法の方程式で算出し、煙出しの横にかかつた三日月にこつそりと唇を求めるのだ。 ( 切りがないので、以下略 )

どうだろう、もう80年以上も前の文章なので、分かりにくい単語やなんかもあるにはあるのだが、しかしニュアンスが伝わってきて、これもまた文体である。文体はその人そのものであると言う。アスターとは「銀座アスター」という中華料理のレストランで、僕も東京にいた頃は割に食べに行っていた、ということを思い出す。
「 あなたのためいきは夕暮れのヴィオロンね 」なんてささやく女性はいるだろうか …… 。 カルバドスはフランスのリンゴのお酒。