AM 6:15 の空

2013-09-30 | 日記

  

朝のそよ風に、穂先が長く伸びてススキがゆっくりと揺らいでいる。空の青が非常に透明である。撮ったところは旧栃尾市の比礼 ( ひれ ) という集落がある国道沿いから。このすぐの奥まった近くに諏訪神社があり 「 比礼の宮清水 」 がある。画廊への出勤途中、ここで冷たくてまろやかな、とても珈琲が美味くなる水を汲んでからの出勤になる。

  

                       これが 「 比礼の宮清水 」 !

 


空の色

2013-09-28 | 日記

               また一日が、色を移しながら過ぎてゆく。

こんな空をぼんやり見ていると、遮二無二の 「 栄達の世界 」 から相当な距離にあることを感ずる。この空は、言ってみれば静かなる 「 観想の世界 」 であるだろう、と思う。一日が静かに去って行く彼方の空には、そういう思いにさせる時間と空間がある。 

           夢みたものは ひとつの幸福

           ねがつたものは ひとつの愛

           山なみのあちらにも しづかな村がある

           明るい日曜日の 青い空がある

                  ( 立原道造 「 夢みたものは … 」 より )

 


君はかなしからずや …

2013-09-27 | 日記

遠くの山並みの稜線が青い空に鮮明としていたその一角に夕暮れの雲が棚引いていて、山際の青い空までが薄い桃色になっていた。思えば少年時代に見た夕焼けはもっと強烈な赤い世界だった。しかし余りにも幾時代が過ぎた今日の夕暮れは、水彩画のような水のような淡き桃色の光景である。今日という一日がこの薄い色彩のように暮れて行くことを実感することは、これも一種の幸せと呼んでもいいことなのだろうか。

一昨日書いたブログに牧水 ( 1885-1928 ) の歌を掲載した。牧水は 「 白鳥はかなしからずや 」 と言ったが、余りにもの自然の美しさを前にすれば、人は悲しくなる他ないのである。もっとも自然ばかりではなくても人為な美しさに触れても、それは悲しみの表現を採るに違いない。牧水は白鳥の所為 ( せい ) にして、自分自身が悲しくなるのである。水平線を不分明にした広い青い空と海の世界に白鳥が滑空する情景は、余りにも美しくて涙を流すほかないのである。この 「 かなしからずや 」 という表現は、相手に諾否を促すものとして、また共感を促す表現としても優れていると思う。君や僕に問われているのである。

       君はかなしからずやこの雲の色に望郷を思わざれば

 


青い 「 望郷 」

2013-09-25 | 日記

今日は掲載する写真を撮ってないので、今日は写真なしである。

夜に入って雨が降り出した。窓が開いていないかどうか一応点検して見るが、しばらくしてもう雨は止んでしまった。それでまた虫なんかがまた一斉に鳴き出したのである。日中は暑かったが、そんなことももう忘れてしまっていて、風が涼しく気持ちいい。ひょんなことから、深更になってしまってから ou Tube で山崎ハコの 『 望郷 』 を何回か繰り返し聴いていた。その中で、 “ ひで & たま ” というギターユニットの夫婦が歌うこれがよかった。若山牧水の有名な歌があるが、こんな歌を聴くとなぜか 「 かなしからずや 」 である。

   白鳥 ( しらとり ) はかなしからずや空の青海のあをにも染まずただよふ  

 


12時間後と 「 菜穗子 」

2013-09-24 | 日記

                  朝、6 時 15 分の西南西の空

                    夕方、6 時 15 分の西の空

 風呂上りに外に出て、数分間のストレッチ体操をする。夜の匂いは稲刈りの後の稲の匂いがして、涼しい夜が気持ちいいし、星が綺麗だ。今夜は読みかけになっている昭和16年発表の 「 菜穗子 」 を読み終えようと思う。この小説は 『 堀辰雄全集 第二巻 小説 下 』 に収録されている。人妻・菜穗子と、病気の体と冬の旅ですっかり疲れ切った都築明とは一体どうなるんだろう、今は後半部分である。しかし小説とはいいながらストーリーを追うことではなく、菜穗子や明と共にこの小説に流れる時間と空気に身をゆだねるのである。菜穗子や明が生きている文学空間はイコール僕の現実生きている空間ではないのは勿論であるけど、だけど小説家の文体というものが、僕をして、主人公たちの肉声として聴こえてくることはあるにはあるのである。上質な音楽に、時として陶酔することがあるように … 。澄み切った初秋の空に星々が輝きを引き残して行くように、彼らもまた読む者の心に消え残るのである。全てではなく一部でもなくて、僕の心に消え残ったものだけでいいのだ。菜穂子が夜の窓に電灯を灯せば、それは僕の窓にも電灯が灯るのだった。

こんな陰気な冬空の下を、いま頃明はあの旅びとらしくもない憔悴した姿で、見知らない村から村へと、恐らく彼の求めて来たものは未だ得られもせずに ( それが何か彼女にはわからなかつたが ) 、どんな絶望の思ひをして歩いてゐるだらうと、菜穗子はそんな憑かれたやうな姿を考へれば考へるほど自分も何か人生に對する或決意をうながされながら、その幼馴染の上を心から思ひやつてゐるやうな事もあつた。 「 わたしには明さんのやうに自分でどうしてもしたいと思ふ事なんぞないんだわ。 」 そんなとき菜穗子はしみじみと考へるのだつた。 「 それはわたしがもう結婚した女だからなのだらうか?そしてもうわたしにも、他の結婚した女のやうに自分でないものの中に生きるより外はないのだらうか? … 」   ( 「 菜穗子 」 より )