夜の参道

2015-09-28 | 日記

    

9月12日夜の巣守神社参道。燈明に灯りが入っていた。カメラのSDカードを整理していてこんな写真がでてきたので、捨て難くて見入っている。「 秋祭り 」の前夜だった。 

 


午後の珈琲時間

2015-09-27 | 日記

      

1981年7月に当時東京・京橋にあった佐谷画廊で開催された展覧会カタログに、コーヒーカップが秋の日の清涼な影を作っている。詩画集『 物質のまなざし 』( 詩・瀧口修造 リトグラフ・タピエス 1975年 ) を展示した展覧会だった。アンニュイという言葉がピッタリな午後の時間に、こういう昔の展覧会カタログをパラパラめくっていると、時間が静止したような錯覚を覚える。そして、当時の懐かしい人たちの面影が移って行くのである。秋の日のノスタルジーは一冊の薄い本からも零れている。「 まなざし 」を注がれたものは美しい陰影で応えるだろう … 。

    

        窓は室内へひらく

        闇は外から

        燈火と睦み合う。

     

        花鳥風月

        月並文句

        の鎖を解け

        ものとことばに

        野の鍵を。    ( 瀧口修造 詩「 物質のまなざし 」より一部分 )

 


古民家レストラン『舞待夢』の庭

2015-09-27 | 日記

  

  

昨日は柏崎市西山町にある 『 舞待夢 』 をひと月振りに訪ねた。このレストランから程近い石地海岸の浜辺も静かに凪いでいて、レストランの庭にも風がなかったから、写真のように蜘蛛の糸が緊張し光っているのである。午後二時頃の光景である。畳にゴロンとして、九鬼周造の「 押韻論 」を読もうと思っていたがどうにも読む気にならなくて、スタッフの賄いランチをご馳走になって、そのまま柏崎市内の国道8号線をドライヴしたのだった。

詩は他の芸術と同様に内容と形式とに分けて考えることが出来る。詩の内容は感覚、感情、思想等の複合体である。詩の形式は言語相互間の関係に存するものであるが、二様の異なつた見地から見る事が出来る。一は言語の有する音の連続に基く量的関係で、他は音の特殊なる質的関係である。量的関係は相接続する音綴の数、又は長短、又は強弱に基礎を有するもので、詩のを形成してゐる。質的関係は即ち詩のを形成するものである。斯様な形式を詩に採用することに就いては、徒らに創造の自由を束縛するのみで何等価値なきものと考へ得るかも知れない。然しながら芸術の本質は内容と形式との調和統一に存するもので、芸術の内容は芸術としてふさはしい形式を備えなければならない。形式上の束縛は芸術には或意味で本質的のものである。 (「 邦詩の押韻に就いて」冒頭部分から )

「 芸術 」とか「 美 」というものは、COSMOS( 秩序と調和 )を本質としているのである。 形式とは即ち、このコスモスのことであるのだろう。秋になれば、庭には紫の小さな花が咲くのである。雨上がり、一匹の蜘蛛は細い光る糸でAとBを架橋するのである。

 


Galerie 412 「料治幸子展」

2015-09-26 | 日記

 

 表参道ヒルズ同潤館302Galerie412 ( 渋谷区神宮前4-12-10 TEL03-5410-0388 ) にて。10月23日(金)‐31日(土)。山内氏の文章にあるように料治さんのドローイングはひとつの肉体労働である。墨の痕跡は労働の痕跡である。人生とは単に労働の痕跡に過ぎない。飛跳ね流れる水の記憶のようなものだろう、と思う。水から生命が生まれたように、労働から大切なものが生まれる。

 


“ YOKOHAMA 崎陽軒 ”

2015-09-24 | 日記

       

          「 あらゆる悪 ( mala ) を追い給へ 」

絵のタイトルは、西脇順三郎詩集 『 ambarvalia 』 からの一節である。お土産にもらった横浜名物のシュウマイで有名な、「 崎陽軒 」 の箸袋を貼りつけたデッサンである。赤いマークが面白かったので、お土産の記念に掲載する。