秋思八海山遠望

2010-10-31 | 日記
ここのところ 「 秋山 」 「 晩秋 」 そして 「 秋思 」 と 「 秋 」 が続く。物思う秋であるから、空の青さは深く、空行く雲も高い、それになんといっても遠くから見る八海は哲学者であった。面と向かうと、向かう自分とはなんだろう。考えざるを得なくなるのだった。

紅葉にはもう少し後のほうがいいかな。


晩秋夕焼

2010-10-29 | 日記
秋も深まって、冬が近くなって、そして日が落ちると、あっという間に暗くなる。その一日の名残の瞬間の雲の色。こんなにも雄大に空が色付く季節は圧巻である。空の水色はこんなにも澄んでいるのに、郊外はここでは単なるシルエットにすぎないのに、紅葉した雲さえあれば一日が終わるのだった。

  疲れ果て、疲れ果てたことさえ忘れ果て
  忘れては思い出させる、いつかの雲の色
  日は暮れて、遠くの寺から鐘の音がする



秋山夕暮

2010-10-27 | 日記
細かい雨を降らしていた雲が、夕方になって晴れて来た。昨日から寒い日が続いていて、里の山は未だ紅葉していないのに、もう守門には薄く雪が降りていたのだった。いつの間にか冬が近くにいたのであった。
家の前の柿の木に熊の爪跡があったといって、今朝、隣の未亡人は驚きを隠さず、僕の家でお茶を飲むのだった。母も一緒に驚いて、山里では秋が一段と深くなった。

守門岳は夕陽を受けて、淡く桃色に染まった。僕は桃色をした山々に、山の畑の朱色の大きな柿を七つもいで地面に並べて、それを捧げものとした。山からの帰り、早く暮れ行く空には既にジュピターが光っていた。

一日が哀憐として過ぎて行き、
季節が愛憐として過ぎて行った。


休日の渓流に

2010-10-25 | 日記
少しの食糧を持って、渓流でスケッチする時間は心楽しい。据わりのいい岩石を見つけて上流から下流を見ると、黒い岩肌の狭い谷間に赤い橋が架かっている。まだ紅葉には早い木々の間に、赤いカーヴがとてもいいのだった。自然の中では少々の建造物がいい、 「 山川のさやけし 」 緑と清流には人工は微かでいい。

現代経済を化学式で表記すれば 「 CO2 」 になるのだろうか。しかしこの自然の中では炭素 C は化学反応をしないのだ、ただ酸素 O2 があるばかりだった。C の結合は何によってもたらされる?

水の流れを見ていると、唐突に思い出された言葉があった。 定家の日記 『 明月記 』 治承四年 ( 1180年、19歳 ) 九月に書かれた有名な言葉。

  世上亂逆追討雖滿耳不注之、紅旗征戎非吾事 

炭素 C の反応しない世界は存在しないのだろうか。酸素 O と O が結合する純粋なる世界を夢見て、これは岩石上のイリュージョンか…。


CARNATION と 吾亦紅

2010-10-22 | 日記
玄関に飾られたカーネーションと吾亦紅。先日若い訪問客から母がいただいた花です。母がブロンズの前に活けました。写真に撮って見ると落着いたコントラストに写っていました。ブロンズは高村光太郎の高弟で彫刻家・小坂圭二 ( 1918-1992 ) 作 『 手 』。花もブロンズもどちらも同じフォルムを持っているように見えないだろうか。天を仰ぐような、何かを摑もうとするかのような…。いずれにしても、家の中が少し華やぎました。

吾亦紅の名前の由来に、「 われもこうありたい 」 という。