今朝起きて見ると、辺りは薄く雪が覆っていた。長岡では昨日に初雪が降った。いよいよ実質的に冬が来たのである。やっぱりこの地方では雪を見ないと冬になったという実感が湧かないのであるが、それは僕だけのことだろうか。雪のない冬という季節は考えられないから、やはり冬は雪なのである。冬支度とは雪への対処のことである。僕はまだ雪囲いしていないので、しかし僕はどうも、雪を見ないとこの雪囲いをする気にはなれないのである。だから明日にでも囲いをしなければならないような、気にはなっているが、やはりどうも … もっと降らなければ、という思いがこの期に及んでさえも、そういう気になれないのが、メンドクサガリヤなのである。やってしまえばホンノ数時間で終わるのに … 。悩みは尽きない、毎年の恒例事業 (ナントオオゲサナ言い回しだろう) にもかかわらず、である。
しかし、そのことはそのことで、雪もまた冬の営みを教えてくれるのであるから、人生を鍛えてくれると思えば、雪の季節もまた貴重な経験をもたらしてくれるのである。こういう日には思い切って雪囲いをしないで、やっぱり炬燵に入って佐藤春夫 (1892-1964) の『殉情詩集』(大正10年 新潮社刊) を再読するのである。
片こひの身にしあらねど
わが得しはただこころ妻
こころ妻こころにいだき
いねがてのわが冬の夜ぞ
うつつよりはかなしうつつ
ゆめよりもおそろしき夢。
こころ妻ひとにだかせて
身も霊(たま)もをののきふるひ
冬の夜のわがひとり寝ぞ。 (「或るとき人に與へて」)
詩人の現実経験をひとつのフィクションとしたものだろうか、心身が「をののきふるひ」というフレーズが妙に迫真的なのである。実際の人妻をここでは「こころ妻」としたのだろうか。29歳の詩人の人妻への恋ごころである。大正十年の「冬の夜」は、令和元年の四畳半の冬の夜を「いねがて」(眠れぬ) の恋愛空間に変えるのである。