『 校本 宮澤賢治全集 第14巻 』 ( 昭和52年 筑摩書房刊 ) の年譜を読む。90年前の大正11年 ( 1922 ) の今日、賢治の二歳下の妹トシの葬儀があった。下記、トシの死を記述した11月27日から葬儀のあった11月29日の部分を年譜から書き写す。
「 11月27日 ( 月 ) みぞれのふる寒い朝、トシの脈拍甚だしく結滞し、急遽主治医藤井謙蔵の来診を求める。医師より命旦夕に迫るをしらされ、蒼然として最愛の妹を見守る。この一日の緊張したありさまは < 永訣の朝 > < 松の針 > < 無声慟哭 > にえがかれている。いよいよ末期に近づいたとき、トシの耳もとでお題目を叫び、トシは二度うなづくようにして八時三〇分逝く。享年二四歳。押入れに首をつっこんで慟哭する。
11月28日 ( 火 ) 弔問客でごった返し、お通夜の食事を出すのに家族は追われた。宮澤家には下に浄土真宗の、二階に日蓮宗の仏壇があり、賢治はその曼荼羅に祈りつづける。
11月29日 ( 水 ) 寒い風の吹く日、鍛冶町安浄寺で葬儀が行われる。花巻高女生徒二年以上が門前の両側に整列し、校長の追悼のことばがあった。賢治は宗旨がちがうために出ず、棺を火葬場へ送り出すとき、町角からあらわれて人々と共に棺に手をかけて運んだ。火葬場は同じく鍛冶町 ( 現在は藤沢町 ) にある地蔵寺となりの池のそばにあり、うすぐらく陰気な上に、道はじめじめとわるく叔母の梅津セツは着物にゴム靴というありさま、その上火葬場が火事で焼けていたため、野天で焼く始末であった。薪や萱を山のように積んだ。安淨寺の僧侶がかんたんな回向をしたあと、賢治は棺の焼け終わるまでりんりんと法華経をよみつづけ、そこにいた人びとにおそろしいような、ふるえるような感動を与えた。遺骨は二つに分けるといい、自分の持ってきた丸い小さな鑵に入れた。 」
トシは幼い頃から、父・宮澤政次郎の自慢の娘であったという。当時、新しい女性の生き方に関心の深かった政次郎は、トシが母校の教師になったことを大変喜んでいた。しかしトシの闘病生活は長かった。賢治の詩 「 永訣の朝 」 は悲しみを湛えて感動的である。永訣とは、永遠の別れ。