写真は瀧口修造著『余白に書くⅠ』( 1982年7月1日発行 みすず書房 ) の表紙である。サム・フランシスのアトリエの「青の飛沫」を表紙にしている。朝の早い時間に眼が覚めて、眠れない夜にさえも朝が早かった。昨夜には驟雨があって、日中の暑さを緩和してくれたがどうもあまり熟睡ができないでいるから、夜中も本を開いてはまたウトウトしてはまた眼が開いては……、の繰返しで、このところ睡眠読書 (または読書睡眠) が旺盛になったのはヤッパリ「老人力」がパワーアップしたせいであるかも知れない。従って、この『余白』を読んでいるのだった。睡眠の余白に読書を、読書の余白に睡眠を!という訳である。
ところで、明日の7月1日は瀧口修造の命日である、ということに気付いた。瀧口修造は1903年に富山県に生まれて、1979年7月1日に亡くなったのだった。既に没後40年になろうとしている。僕が26歳の時に亡くなっていて、僕がまだ理系の真面目な (!) 学生のころは著書や訳書をいくつか読んでいたが、当時はお金がなくて本も買える状態ではなかったので、慶応に通っていた友人から見せてもらったりしていたのを懐かしく思い出すのである。西脇順三郎やなんかもその彼から教えられて読んでいた。そして「シュルレアリスム」なんて言う言葉もその頃覚えたのだった。僕にはそういう言葉がとても新鮮な時代だったし、絵画なんかもそういうシュルレアリスム系のものが、今まで見たこともなかったので強烈なインパクトになったのである。瀧口修造には一度会ってみたかったけど、卒業してからすぐ故郷に戻って就職したから、東京の画廊めぐりはもっと後になってからだった。そのまま東京にいたらきっとどこかの画廊でお会いできたかも知れない。今の僕の絵や本のコレクションもそうしたら、きっと違っていたに違いないのである。そうは言ってもその後、今はもう亡くなってしまったが、佐谷画廊の佐谷和彦 (1928-2008) 氏に出会えたことは僕の財産である。
人間はもうひとつの言語をもっている。
眼、唇、手、掌、乳房、肩……いや身体髪膚が声を発する。
それが造形感覚というものだ。
セックスと愛とはなぜ重なり合ったり合わなかったりするのだろう。
人間必死の努力にもかかわらず。
星が降るように落ちている青の飛沫、
それはわたしが画家の仕事場から掠めてきた唯一のものだ。
ところがそれは画家の「自然」であった。
鳥の羽根はもっとも忙しく
もっとも静かなもののひとつである。
おまえは主人公のいない小さな物語をいっぱい宝石筐のように蔵まっているのだが。
誰にも語ったことがない。
(『余白に書くⅠ』より「黄よ。おまえはなぜ……サム・フランシスに」から)