朝の “ マージナリア ”

2018-06-30 | 日記

               

写真は瀧口修造著『余白に書くⅠ』( 1982年7月1日発行 みすず書房 ) の表紙である。サム・フランシスのアトリエの「青の飛沫」を表紙にしている。朝の早い時間に眼が覚めて、眠れない夜にさえも朝が早かった。昨夜には驟雨があって、日中の暑さを緩和してくれたがどうもあまり熟睡ができないでいるから、夜中も本を開いてはまたウトウトしてはまた眼が開いては……、の繰返しで、このところ睡眠読書 (または読書睡眠) が旺盛になったのはヤッパリ「老人力」がパワーアップしたせいであるかも知れない。従って、この『余白』を読んでいるのだった。睡眠の余白に読書を、読書の余白に睡眠を!という訳である。

ところで、明日の7月1日は瀧口修造の命日である、ということに気付いた。瀧口修造は1903年に富山県に生まれて、1979年7月1日に亡くなったのだった。既に没後40年になろうとしている。僕が26歳の時に亡くなっていて、僕がまだ理系の真面目な (!) 学生のころは著書や訳書をいくつか読んでいたが、当時はお金がなくて本も買える状態ではなかったので、慶応に通っていた友人から見せてもらったりしていたのを懐かしく思い出すのである。西脇順三郎やなんかもその彼から教えられて読んでいた。そして「シュルレアリスム」なんて言う言葉もその頃覚えたのだった。僕にはそういう言葉がとても新鮮な時代だったし、絵画なんかもそういうシュルレアリスム系のものが、今まで見たこともなかったので強烈なインパクトになったのである。瀧口修造には一度会ってみたかったけど、卒業してからすぐ故郷に戻って就職したから、東京の画廊めぐりはもっと後になってからだった。そのまま東京にいたらきっとどこかの画廊でお会いできたかも知れない。今の僕の絵や本のコレクションもそうしたら、きっと違っていたに違いないのである。そうは言ってもその後、今はもう亡くなってしまったが、佐谷画廊の佐谷和彦 (1928-2008) 氏に出会えたことは僕の財産である。

             

             人間はもうひとつの言語をもっている。

             眼、唇、手、掌、乳房、肩……いや身体髪膚が声を発する。

             それが造形感覚というものだ。

 

             セックスと愛とはなぜ重なり合ったり合わなかったりするのだろう。

             人間必死の努力にもかかわらず。

 

             星が降るように落ちている青の飛沫、

             それはわたしが画家の仕事場から掠めてきた唯一のものだ。

             ところがそれは画家の「自然」であった。

 

             鳥の羽根はもっとも忙しく

             もっとも静かなもののひとつである。

 

             おまえは主人公のいない小さな物語をいっぱい宝石筐のように蔵まっているのだが。

             誰にも語ったことがない。

 

                 (『余白に書くⅠ』より「黄よ。おまえはなぜ……サム・フランシスに」から)

 


雨が降らない

2018-06-26 | 日記

              

もう梅雨が上がったかと思われる日々である、今日も晴れて暑い日だった。風がなかったから、午後の花も揺れなかったのである。一日中ぼんやりしていて、縁側越しにいつもの風景を見ている時間が、今日はなんとなく気持ちいいのだった。「ぼんやり」が充満している風景、とでも言うのだろうか。時間と風景と僕の怠惰が混然として、一体である。僕の「失われた時」がここにはあるような気がするのだ。後ろめたさや誤りは誰にでもある。でも、そうではなくて、詩人エズラ・パウンド (1885-1972) の『キャントウズ』の一節にあるように、

                 誤りはすべて、なにもしないことにある

ことかも知れない。何もしなかった「失われた時」こそ、意志の喪失だったことを気づくのである。

 


みすず書房版 『クレーの日記』

2018-06-20 | 日記

          

最近、待望の本が出版されて僕は嬉しいのである。みすず書房からこの『クレーの日記』が出版されたのだ。箱入り、ソフトカバーのちょっと見では教科書のようなドイツ語で書かれた “ PAUL KLEE TAGEBUCHER 1898-1918 ” という黒い文字がエンボスされて、薄黄色の表紙の色に食い込んで鮮やかである。

 


眠かったが ……

2018-06-15 | 日記

                

昨夜に描いたデッサン。早い時間にももう眠かったが、ぼんやり机の上のスケッチブックを開くと、その白い紙に白い文字で「すべての予想をこえて」と書かれていた。幻視のような、しかしとても鮮明な文字が浮かんでいたので、眠かったが、描いているうちに夜が冴えてきて、描いて見たのがこれである。しかし眠かったが、“ Beyond ALL expectations ” と、でかくタイトルを書き込んだ。今日は母のオペレーションの日である。ドクターの声もでかくていい。今朝はもう眠くはない。

 


6月の田んぼ

2018-06-13 | 日記

              

明日は母が入院する日で、今夜はその準備でちょっと慌ただしい。その慌ただしい前の夕方の曇り空が晴れてきて、夕陽が差す田んぼである。夕陽に誘われて縁側に出て、椅子に腰かけてしばらくの間、頭を休めて、だんだんと生長する稲の並びが揺れて、何かの歌を微かに歌っているような夕暮れである。今日は涼しいような気持のいい一日で、一日のその終わりの時間が縁側時間になって、一日が無事に過ぎて行くのである。毎日見ている風景が、毎日でもそれが何故だか分からないけど、いつも新しい。手前の芍薬の花ももう散ってしまったが、その名残の緑葉や茎がまだ生彩であるのが、この季節を季節らしくしていて、ここで、もう6月も半ばになってしまったのである。もう一年の半分が過ぎようとするのである。去年の8月にも母は入院したが、今年もまた同じである。人も季節も繰り返すから、人生であり季節なのだろう。

これを書いている今の時間は夜中の9時になろうとしているが、バッハのオルガン音楽を聴きながら書いているから、この風景にも音楽が流れているのが分かる。