真冬の守門岳

2020-01-26 | 日記

                   

今日もいい天気になった。写真は、今日の午後3時頃の守門岳を望む。冬の真っ最中だというのに、守門の頂上付近だけが白くなっているが、他の山肌には胡麻塩のように樹々が点々と黒く、如何に雪が少ないかが分かる。里には、雪の気配すらない1月26日の日曜日の午後である。
今日は天気に誘われて、少し車を走らせてランチに行って来たその帰りのロケーションなのである。雪がないと、毎日の暮らしはとても楽であることを実感するのだが …… 。      

帰宅して、炬燵に入って『荷風全集 第15巻』( 岩波書店 昭和47年第二刷発行 ) を開く。昨夜からの続きで「為永春水」の項を読む。昨夜はあともう少しで、この項を読み終わりそうだったが、突然の睡魔には勝てなかったからであった。この巻では森鴎外の他に、大田南畝や大沼沈山などについての文章を集めているが、それにしてもこの荷風の文章は、漢文や僕にとって未知の漢字が多々登場してくるから、スラスラ読めなかったのである。漢和辞典を引き引き、遅々として読み進めないのであったから、それでやっと今日、「春水」を読み終えた。ここで荷風の文章を引用したいのだが、今夜も睡魔が襲ってきた … 。

 


朝の影

2020-01-12 | 日記

          

今朝も暖かいいい天気になった。まだブラインドを開けていない部屋の、ブラインドを透かして入る朝日を背景にして、いつか土の中から “ 発掘 ” した自転車のミイラ化したサドルがピカソのオブジェの影である。真冬の朝だというのに、光はもう春の田園の光である。
ボードレールの詩集『悪の華』の詩篇に「太陽」というのがあるが、その四連の中の後半部二連に下記のような節がある。

            

            松葉杖をつく老人を若返らせ

            少女のように快活に 優しくさせるのも、

            いつも花ひらくことを望む 不滅の心のなかに

            生長と成熟を 穀物に銘ずるのも 太陽である!

 

            詩人のように町へ降りて行くと、太陽は

            どんなにいやしいものの運命までも高貴にし、

            どこの施療病院のなかへも どこの宮殿のなかへも、

            従者もつれず しずしずと 王様のようにはいって行く。

 

朝の太陽は嬉しい。目覚めてトイレに行く時、廊下に光が射していると僕の一日が「薔薇の目覚め」になる。「心配ごと」が「空のかなたへ」行くようでもある。僕の寝ぼけの脳髄はミツバチの蜜に満たされるのである。
上の訳文は旺文社文庫版の佐藤朔訳『ボードレール詩集』(昭和47年初版)からのものであるが、ここに齋藤磯雄訳『限定版 ボオドレエル全詩集』(昭和54年 東京創元社刊)から、同じ個所の訳文を紹介しておく。

 

            松葉杖つく病人を若返らせて、太陽は、

            乙女のやうに華やかな優しい気持にしてくれる。

            また穀物に命令し、花咲くことをひた希(ねが)

            不滅の人の胸にこそ、ゆたかに茂り稔れといふ。

             

            詩人のやうに、太陽が、巷巷(ちまたちまた)に降り立てば、

            むげに卑しい物たちの運命さへも気高くし、

            ありとあらゆる施療院、ありとあらゆる宮殿に、

            従者も連れずしづしづと、王者のやうに進み入る。

 

 

    

 


ストーヴの明かり

2020-01-11 | 日記

           

火の見えるストーヴが欲しくて、最近手に入れたコロナ社製のものである。直ぐに暖かくなって、鉄瓶を掛けて置けば、これも直ぐに沸騰するので、何と言ってもお気に入りである。その上に、鉄瓶のお湯が沸いて蒸気が立ち上って加湿器の役割もしてくれている。日がな一日、今日は暖かかったけど、季節が季節だけにストーヴは欠かせないのだった。

              ふゆの日の今日も暮れたりゐろりべに胡桃をつぶす独語(ひとりごと)いひて

この歌は、齋藤茂吉 (1882-1953) 著『 自選歌集 朝の螢 』(昭和21年 改造社) より引用する。ストーヴにあたりながら、冬の日の今日も日が暮れて行く。珈琲を飲みながら独り言を言うのも何だか侘びしいものもあるが、だけどそんなに淋しいものでもない。むしろ、暖かいものの満たされる感があり、この時間はこの時間で、時間の忘却的陶酔があるのである。また明日への希望的陶酔もある。自分から、夜の闇を一層暗くして、深い闇の中に陶酔するのである。
ストーヴは、僕にとっての「ゐろり」である。

 


睦月の満月

2020-01-10 | 日記

          

雪のない一月になっていて、どうも今年は雪が降らないようである、という予報もある。5時半頃の田園の夜景なのであるが、東の空はもう雲が去ってしまって夕焼けの青空になっていて、空気も澄んで、とても気持ちいい夕方である。大分古いバカチョン・カメラなので、実際的にはとても冴えた満月である。この月と一緒に、東の山を二つばかり越えて、僕は帰らなければならない。その途中の満月である。平安時代に生きた西行 (1118-1190) も見ただろう、今も変わらぬこの月の光こそ、光を投げかければ投げかけるほどに、歌の発生を促す美しい韻律を、この地上に放っているのである。その西行の歌である。

               もの思ふ袖にも月は宿りけり濁らで澄める水ならねども

               恋しさをもよほす月の影なればこぼれかゝりてかこつ涙か

               面影に君が姿を見つるよりにはかに月の曇りぬる哉 

                                                                                          ( 岩波文庫『西行全歌集』(2013年版) より )

僕の涙は「濁らないで澄んだ水のようではないが」、しかし僕の涙にも月が映り、宿っているのである。「もの思ふ袖」とは涙のことであろう。西行は何をもの思うのだろう、また、誰を忍んでいるのだろう。昔も今も変わらぬものは、地上を慈悲する月の陰影と、奥深く潜める人の涙である。

 


夜の花

2020-01-07 | 日記

          

                    夜になると あの白い花は光っている

                    夫人の招待は 谷間の向うの丘にある

                    夜になると 北の窓は黒い瞳を開いている

                    通り過ぎた香りに 夜は 無暗に沈んでいる 

                    季節は新しい雪を忘れている 

                    深く抱える冬の 夜の雪が咲いている