RUNNER

2016-04-30 | 日記

       

昨日から連休が始った。このところ気温の低い日が続いていて、今日も、部屋の中にいてもシャツ一枚では少々寒い気がするのでカーディガンを羽織るとちょうどいいのだった。それで、羽織ったところで絵の続きを描いていると電話がなったから、絵は中断して電話の用で一時出掛けてしまった。中断が良かったのか、帰ってきて続きを描くと、頭が意外と冴えていて早速に仕上げることができた。もっとも仕上げと言っても、決まった仕上げもなくて、ただ気まぐれに何処で止めるか止めないかなのである。ランナーは孤独である。孤独は人を高める。それは人としての何が高まるのだろうか。それを考え考え走るのがランナーである。ランナーは考えるのだ、アスはどう生きて行こう、アサっては何を生きて行こう。しかし、ランナーは孤独ではない。応援する人が必ずどこかにいるのだ。応援する人も同じくランナーである。 … という絵である。

 


九鬼周造著『時間論』

2016-04-24 | 日記

     

今年2月に出版された九鬼の岩波文庫四冊目になる本である。文庫本になると、全集本で読むとはまた違う味わいがあって、悲しいかな、つい買ってしまうのである。それに編集者の解説や注解にも興味あるからかも知れない。この文庫版には時間に関する三篇の論文が掲載されているが、まだ一通り読んだだけで、「時間」が僕の中にストンと落ちてこないが、その中の一篇「文学の形而上学」はこれから何回でも読めると思うとまた楽しみでもあるし、ぜひ何回も読んで僕の中に落としてみたい素敵な「文学」である。長くなるけどその中の一文を引用しておきたい。

小説家は観察した事実の記憶に選択と変形と配列とを自由に与えるのはもちろんであるが、構成上の計画を細部にわたってあらかじめ決定する必要なく、興味の湧くに従って始めの糸口を未来へ未来へと繰りひろげていくのが常である。それゆえに「筋」の無い小説とか、小説の「無目的性」とかいうようなことがいわれることがある。従って小説には過去から未来へ流れる生命の流れが最もその儘の姿に近いなりで取り入れられてくる。それゆえに他の文学的作品に比して小説は最も包括的である。夏目漱石の作品などを考えてみれば、包括的という意味がおのずからわかるであろう。また小説の長さはいかに長くても別段に差支えない。『源氏物語』などはその一例である。生命が過去の重圧の下にただそこに流れ流れているのである。小説に述べられている言語の実際に充す現実的知覚的時間と小説の中に含まれている想像的観念的時間とは延長の上で比較的接近していてもよいのである。記憶を領域として過去が展開されていくという小説の基本構造が、無目的性とか包括性とか長篇とかいうような特性を可能にさせているのである。(p148-p149)

ここで「夏目漱石」を「マルセル・プルースト」に、『源氏物語』を『失われた時を求めて』に入替えれば、僕にとってはより具体的になるのである。小説の中でさえも、一人一人の人間に流れている時間は現実的時間といってもいいのである。小説の中にあっても「命」が「流れ流れて」行く。

 


今夜の月

2016-04-22 | 日記

   

夜道をとぼとぼ歩いていると山の端から静々と上ってくる満月に遭遇する。動きの早い夜の雲を従えて、時に、朧月夜は何かを思う。月の前を過ぎる雲もまた光っている。春のこんな夜の道は何処までも歩いて行けそうな気がする。前から横から、月が同伴する。鄙びた寒村の屋根屋根を照らす月ほど美しい月はない。芳賀徹(1931生)の著書『詩歌の森へ』(2002年 中公新書)に紹介されていたことだが、清少納言(966頃-1025頃)の言葉に「すべて、月かげは、いかなる所にてもあわれなり」というのがある。そして蕪村(1716-1784)の句にこんな句がある、と言う。

       月天心貧しき町を通りけり