今年2月に出版された九鬼の岩波文庫四冊目になる本である。文庫本になると、全集本で読むとはまた違う味わいがあって、悲しいかな、つい買ってしまうのである。それに編集者の解説や注解にも興味あるからかも知れない。この文庫版には時間に関する三篇の論文が掲載されているが、まだ一通り読んだだけで、「時間」が僕の中にストンと落ちてこないが、その中の一篇「文学の形而上学」はこれから何回でも読めると思うとまた楽しみでもあるし、ぜひ何回も読んで僕の中に落としてみたい素敵な「文学」である。長くなるけどその中の一文を引用しておきたい。
小説家は観察した事実の記憶に選択と変形と配列とを自由に与えるのはもちろんであるが、構成上の計画を細部にわたってあらかじめ決定する必要なく、興味の湧くに従って始めの糸口を未来へ未来へと繰りひろげていくのが常である。それゆえに「筋」の無い小説とか、小説の「無目的性」とかいうようなことがいわれることがある。従って小説には過去から未来へ流れる生命の流れが最もその儘の姿に近いなりで取り入れられてくる。それゆえに他の文学的作品に比して小説は最も包括的である。夏目漱石の作品などを考えてみれば、包括的という意味がおのずからわかるであろう。また小説の長さはいかに長くても別段に差支えない。『源氏物語』などはその一例である。生命が過去の重圧の下にただそこに流れ流れているのである。小説に述べられている言語の実際に充す現実的知覚的時間と小説の中に含まれている想像的観念的時間とは延長の上で比較的接近していてもよいのである。記憶を領域として過去が展開されていくという小説の基本構造が、無目的性とか包括性とか長篇とかいうような特性を可能にさせているのである。(p148-p149)
ここで「夏目漱石」を「マルセル・プルースト」に、『源氏物語』を『失われた時を求めて』に入替えれば、僕にとってはより具体的になるのである。小説の中でさえも、一人一人の人間に流れている時間は現実的時間といってもいいのである。小説の中にあっても「命」が「流れ流れて」行く。