読書

2020-03-21 | 日記

         

『芸術新潮』3月号の特集は「美人画」であった。買うつもりはなかったが、店頭で見ていると、この絵が掲載されていて、僕の知らなかった画家だった。昭和11年作の日本画で『読書』という画題である。画家は中村大三郎(1898-1947)という京都画壇の画家である。見ていると引き込まれてしまっていて、最近はこの雑誌はあまり買ってなくて、しかしどうしようもなくて、小さく掲載されているこの絵のことを知りたくて買うことになったのだった。この平面的画面が一種の知的静謐感を漂わせている。大判の赤い表紙の本は何だろう、画集のようでもあって、しかし、画面の落ち着きのあるトーンを、表紙のこの赤色が女性の隠された「情」を現わしてもいるかのように、口紅の色と共に一枚の画面を、エキサイティングにすることもある。時に読書は、表面性の静かさとはパラドキシカルにも、一個の内面的アヴァンチュールをもたらすこともある。読書の喜びもまたここにある。昭和11年であろうが令和2年であろうが、過去も現代も、読書の楽しみと喜びは不変である。

 


昼の月と「箕輪の心中」

2020-03-07 | 日記

          

今日は快晴になったが、まだ肌寒い。いつもの年では、3月とはいいながらもまだ雪が多く残っているそういう季節なのであるから、肌寒いのは当たり前なのだった。でも、もう村の風景は雪を置いてはいないから、いつもの春と勘違いをするのは、そういうことなのだった。外は寒いが、こういう天気のいい日は家の中はほどよい暖かさである。ストーヴに火を入れないでも今日は暖かくて、本を読んだりするのには、もってこいである。縁側で今日は、埃まみれの古い革カバンを磨いた。骨董屋さんからついでに貰ったもので、やはりいいものは磨くと、やはりいい味を出してくれる。
と、いう訳で(どういう訳でか?)磨き終わって、外に出てみると間近の桑代山の山頂には、透明な月が満月を少し欠いて、快晴の青い空に浮かんでいるのだった。弥生の空であった。

写真は旺文社文庫版の『岡本綺堂情話集 箕輪の心中』(昭和53年刊)である。今では、もうこの旺文社文庫は出ていないから、ちょっと貴重本になっている。何かのついでに知ったのだったが、この「箕輪心中」は実は江戸時代にあった実話に基づいた小説である。主人公は旗本である藤枝外記(1758-1785)という。彼は、名家の武士であり妻子ある身にして、吉原遊女綾衣と相愛になり、のち、心中したという。外記27歳、綾衣19歳だったというのだ。(関係無いけど、良寛も1758年生まれであり、喜多川歌麿は1753年生まれ?という。なぜかここに書いておきたいと思った) この心中事件は江戸の町に評判になった、という。綺堂のこの本では、外記と綾衣の心中に至る「道行」が読める。綺堂は書いている。

外記は腹を切っていた。綾衣は喉を突いていた。男も女も書置きらしいものは一通も残していなかった。多くの場合、書置きというたぐいのものは、この世に未練のある者が亡き後をかんがえて愚痴を書き残すか、あるいはこの世に罪のある者が詫び状がわりに書いて行くのであるが、二人はこの世に未練はなかった。また懺悔するような罪もないと信じていた。褒めようが笑おうが、それは世間の人の心まかせで、二人の心は二人だけが知っていればいいと思っていたらしい。

誰にも二人の心の内は分からない。分からないが、「二人だけが知っていればいい」のであろう。綺堂が最後に書いたように、「思っていたらしい」というのは、誰にも二人の世界は分からないからである。分からないから、人は物語を綴るのである。