福沢諭吉の 「 安心 」 観

2012-03-31 | 日記

丸山眞男著 松沢弘陽編 『 福沢諭吉の哲学 他六篇 』 ( 岩波文庫2001年刊 ) に興味深い文章があったからそのまま引用して、自分の備忘録にしておく。未だ解明できない計り知れない自然への怖れと深みに、科学の力を信頼しているにも関らず人智の薄弱をも率直に、福沢 ( 1835-1901 ) は告白している。その上で彼は、この無常の世界に生きるための 「 安心法 」 を考えるのである。その概略を丸山眞男 ( 1914-1996 ) は次のように書く。

“ 「 浮世を軽く認めて人間万事を一時の戯と視做し、其戯を本気で勤めて怠らず、啻に怠らざるのみか、真実熱心の極に達しながら、扨万一の時に臨んでは本来唯是れ浮世の戯なりと悟り、熱心忽ち冷却して方向を一転し、更に第二の戯を戯るべし。之を人生大自在の安心法と称す 」 。福沢の独立自尊主義が、 「 事物の一方に凝り固まり…遂には其事柄の軽重を視るの明を失ふ 」 ところの人間精神の惑溺傾向に対するたたかいであることは上述した。その意味では、人生を戯と観じ、内心の底に之を軽く見ることによって、かえって 「 能く決断して能く活発なるを得 」 、同時に自己の偏執を不断に超越する余裕も生れて来るという点に、彼は蛆虫観の実践的意味を見出した。

“ 福沢の驚くべく強靭 ( タフ ) な人間主義は、宇宙における人間存在の矮小性という現実から面を背けず、之を真正面から受け止めながら、逆にこの無力感をば、精神の主体性をヨリ強化させる契機にまで転回させたのである。かつて綱島梁川 ( * ツナシマリョウセンは岡山の人 1873-1907 ) はこの点をとりあげて、福沢は人生は根本において真面目なものであるにも拘らず、恰も戯れのごとくに見よというのか、それとも人生は根本において戯れであるが恰も真面目であるかの様に行動せよというのか、いずれが彼の真意であるか、それによって彼の人生観の全体に対する評価は定まると言った。是はたしかに鋭い批評ではある。しかし、福沢の立場からいうならばそうした問題の提起の仕方そのものがそもそも間違いというほかない。

“ 上の二つの側面は相互に補完し合ってはじめて意味を持つのであって、一方だけ切り離された瞬間にそれは誤謬と偏向の源泉となる。 「 人生を戯と認めながら、其戯を本気に勤めて倦まず、倦まざるが故に能く社会の秩序を成すと同時に、本来戯と認るが故に、大節に臨んで動くことなく憂ることなく後悔することなく悲しむことなくして安心するを得るものなり 」 。もし戯という面がそれ自体実体性を帯びるとそこからは宗教的逃避や虚無的な享楽主義が生れるし、真面目という面が絶対化されると、現在の situation に捉われて自在さを失い易い。真面目な人生と戯れの人生が相互に相手を機能化するところにはじめて真の独立自尊の精神がある。福沢は 「 一心能く二様の働を為して相戻らず。即ち其広大無辺なる所以なり 」 と言って、そうした機能化作用を不断にいとなむ精神の主体性を讃えた。 ”

 


新妻

2012-03-30 | 日記

先日、東京の友人から絵ハガキをもらった。全文紹介できないが、いつもハガキの裏面に有名な絵の写真を、どこかからカットしてきて糊付けして楽しましてくれる。その中で今回のものは、鏑木清方 ( 1878-1972 ) の日本髪を結った美人画の 『 春雪 』 であった。その絵に付けた友人のコメントに 「 新妻が帰宅した主人の羽織の雪をはらいながらたたんでいる…うらやましい… 」 とあったから、返信に駄句一句を送る。すなわち、

       春の雪 新妻ころんで 臀の跡

雪のおしりの跡を、近所のクロネコが匂いを嗅いでそこで少しジャンプして跨いで通って行ったから、若干の可笑しみを感じたのである。その女性が新妻であるかどうかは定かではない。そんなには古くはないと思われたのは、彼女の雪道の歩き方がギコチなかったからである。だから村の女ではなかったから、なぜか新鮮だった。春の薄い雪には、ヴェールのような透き通るような、エロチシズムがある。自然の包み隠すエロチシズムが一瞬露出したシーンであった。その決定的写真がないのが残念…、でもないか。

 


喫茶店

2012-03-29 | 日記

         

大きなウィンドウの外から中を撮らせてもらったチェーン店のカフェ。最近こういうオープンスペーススタイルのカフェが増えた。一昔前にはいわゆる “ 純喫茶 ” という、まあ割と閉鎖的雰囲気が漂う喫茶店が流行っていた。椅子ではなくソファであったし、テーブルにはゲーム機が備え付けられていた。云わば昭和時代の代表選手のようなものである。平成時代では “ 純喫茶 ” という言葉はもう死語に近いかもしれない。それにしても純喫茶の 「 純 」 とは何を意味しているのだろうか。


アルチュール・ランボー新訳本

2012-03-28 | 日記

  

                      2011年みすず書房刊 『 ランボー全集 』

書店で見つけたランボーの本と、その隣にはネルヴァル論の本が並んでいた。当時、法政大学の教授だった粟津則雄先生に思い切って電話を差し上げたのを思い出す。 「 ランボーを知るにはどうすればいいですか? 」 。大学を休学して一年間フランス語の学校に通った。若気の至りであった。

 


定点観測と 『 pen 』

2012-03-27 | 日記

       

             午後5時45分頃の西の空。30分後にはもう夜になっていた。

 

夕方の水色の空は、本当に気持ちがいい。大型書店で 『 pen 』 ( 2012.4/1 №510 ) を購入。税込み価格600円也。気持ちがいいと、気も大きくなって高い本でもなんでも買いたいと思う、けど …。今回の 『 pen 』 の特集は 「 暮らすなら、ぬくもりの家。 」

「 心地よい家とは、いったいどのようなものなのだろうか ?  ( 略 ) 共通するのは、生活の道具をとことん排除した無機質な空間でないこと。お気に入りのモノを心地よく配置することから生まれた “ ぬくもり ” 。 いまの住宅には、そんな感覚こそが必要なのだ。 」 とライターは書く。生活の道具はある程度は見せておく、受け入れること。また自慢のモノやお気に入りはうまく部屋に配置することで心地いい空間を作り、家の空気を柔らげるのである。 “ ぬくもり ” の発生源は、その人の 「 住まい方 」 のことであろう。