目の前の風景、「 惑溺 」 する穴二つ

2013-06-12 | 日記

何も書くことがない時は、本当はカラフルな椅子を紹介しようと思っていたのだけど、もう眠くなってしまって … どうしようもなくて眠ってしまった。掲載した写真のことを書こうと思っていたが … なにも書けなかったのである。まあ別に何を書くと言って、何か念頭にあるわけでもなかったから、何も書くことがなかった。無愛想な木製電柱が道端に突っ立っていて、二つの小さな穴が開いていて、覗くと向こうが見えるだけのそれだけのロケーションであった。この穴は実際、何かの使命を負って目的を果たしたのだろうか。既に用済みのものなんだろうか、というのが気になったのだった。人の死もまたこの二つの穴同然であるのか、そうでないのか … 。 「 管見 」 という言葉が浮かぶ。

けど真夜中、目が覚めて、丸山眞男著 『 福沢諭吉の哲学 他六篇  』 ( 2001年岩波文庫版 ) の中の [ 福沢における 「 惑溺 」 ] を読む。

「 … 現実に作用する仕方というものを問わないで、そのもの自身を尊いとする考え方は ― 福沢の言葉で言うならば 「 物の尊きにあらず働きの尊きなり 」 ということを倒錯しているからだ、そういうふうに働きを忘れて、物それ自身を尊ぶのが 「 惑溺 」 だというわけです。ですから、内在的価値それ自体を惑溺というのではありません。… 」