大つごもり三景

2015-12-31 | 日記

      

      

          

神社の帰りの道で撮った三個の大みそかである。水田の中の雪。自販機の広告。雪をかぶる柿の実四つ。ここに、長岡生まれの漂白俳人・井上井月(1822-1887)の俳論「俳諧雅俗伝」(これは早川漫々著『俳諧発句雅俗伝』を下敷きにしたものという)の冒頭に、

(そもそも)、和歌の初は大凡(おおよそ)物につきて悲しき時は悲しと云ひ、嬉しき時は嬉しと云ひしが其儘一首の歌と成りて、実に心に余りて言(ことば)に発せるもの故感情(余情)少なからず。

というのがあるので、僕もこのひそみに倣って一首詠んでみようと思う。

         いつの間に大つごもりの雪のみち柿の実四つ火種は消えず

今年もまた概ね無事だった。ブログを見ていただいて、どうもありがとうございます。来年もまた、代わり映えのないブログかも知れませんが、よろしくご愛顧をお願い致します。皆様の来年がご無事な一年でありますように!

 


空寒み

2015-12-30 | 日記

     

     

     

今朝、郵便ポストまで行く途中に撮ったもので、山が白くなっているから昨夜に降ったのだろうか。去年の今頃は雪に埋もれていたから今年は予報通りに雪が少ない。細く流れるせせらぎにかぶさった雪もポッカリと穴を明けて融け出している。

       そらさむみ花にまがへて散る雪にすこし春あるここちこそすれ

今日の空もようのようであり、雪が少ないのはやっぱり気持ちの問題で、気持ちが軽くなっているのが分る。この歌は女流作家・清少納言がものしたという歌であるが、21世紀初頭の鄙の邑の光景は、実に、千年を隔てて10世紀後期平安の時代と変わらないのである。心も身体もどこか春めきを感じる自分がいるのである。こういう気持ちは雪の国に暮らす人でないとよく分らないかも知れない。

和歌は教養で歌うのかそれとも経験で歌うのか、二つに分れるところだろうが、この女流作家にして歌人・清少納言の場合はどうだろう、彼女は外国文学(漢文)にも相当な知識があったという。清少納言は、『白氏文集』第十四の「南秦の雪」と題した「往歳會て西邑の吏と為り、駱口より南秦に到る。三時雲冷かにして多く雪を飛ばし、二月山寒うして少しく春あり。我は旧事を思うて猶惆悵す」という文を知っていて、「すこし春ある」はその引用という。

 


雪景

2015-12-29 | 日記

     

     

雪の朝。いつもの樹木は趣を変えているし、家の前の轍の曲線が生き物のように神社の杜に進入して行く。静かさの雪の朝は、曲線が何かを意志しているようだ。朝未だき、除雪車の唸る音を聞きながら、電気毛布の暖かさに包まれて斎藤磯雄訳ヴィリエ・ド・リラダンを読む。こういう時には、雪は深々と降ればいいと思うのだ。しかし雪は暮らしの中では一個の生活受難である。またこれから数ヶ月は雪との冷たい付き合いが始るのだが、受難は時にはまた一個の PASSION をもたらすこともある。オプティミスムの中にはペシミスムは存在しないが、真のペシミスムというのは実はオプティミスムが核になっているに違いない、と思うことがある。リラダンを読んでいると、そう思うのである。僕はフトンの中に安穏として、ただリラダンを愛読するばかりである … 。かつて仏蘭西文学者・斎藤磯雄は論文「リラダン」の中で詩人(ボードレールあるいはリラダン)について、こう書くのである。

恐らく「戀愛」は生物學者にとつて《粘膜の問題》に過ぎず、「女性」は蕩兒にとつて快樂の道具に過ぎず、「結婚」は西歐の政治家にとつて人的資源の工場に過ぎまい。併しながら詩人にとつて女性とは「完璧」の幻であり、戀愛とは「祈禱」であり、婚禮とは「至福」の象徴に他ならない。

 


雪の日

2015-12-27 | 日記

       

家の前の田んぼに雪が降っている。夕方4時半くらいの時間だろうか、雪が降ったり止んだりして日曜日の一日が過ぎて行く。日没時間は今は4時半くらいだろうか、でもこんな日は特に早く感じて、3時をまわろうものならもう暗くなって行くのである。一日があまりにも早過ぎるナ~ … 。

 


未來のイヴ

2015-12-26 | 日記

         

一昨日、昨日と「楕円形のイヴ」を掲載したが、この「イヴ」にはクリスマス・イヴとリラダンの「未來のイヴ」との連想があった。「イ」ではなく「イ」なのである。仏蘭西文学者・齋藤磯雄(1912-1985)全訳になる限定版『ヴィリエ・ド・リラダン全集』(東京創元社)が発行されたのは昭和49年からで、発売後一週間で品切れになったという。僕は限定版を買いそびれてしまい、いやそうではなくて、当時まだ貧乏学生だったから買えなかったのだ。それ以後、ずーっといつかの発行を待っていたのである。そして昭和52年3月、ついに写真掲載のこの普及版『リラダン全集』の全五巻が順次発行され始めたのだった。他人から見ればバカな話だろうが、この時、とても嬉しかったのを覚えている。

そこでこの第二巻目に、リラダン伯爵(ジャン・マリ・マティヤス・フィリップ・オーギュスト・ド・ヴィリエ・ド・リラダン 1838-1889)の長編小説『未來のイヴ』が掲載されている。トマス・エジソンによって製作された才色を具えたアンドロイド「イヴ」は僕の理想の女として、爾来、僕の胸の奥の奥に仕舞い込まれたのである。「イヴ」という文字と発音を聞くたびに、それは理想でありスフィンクスである女を喚起するのである。知性が肉体を持ち、肉体が形而上学であるのである。

― ひたすら官能の快樂だけを追求する心が、どうやら、この新世代の人間共に於いては、あらゆる尊い感情を亡ぼし尽してしまつたやうだから(顔を伏せて地面ばかりを眺めてゐるこの連中の間にわたくしもまた暫しの間はまぎれ込んでゐるわけだが)、神聖な愛や情熱のことを話してくれるこの年だって、やはりこの世紀に現れては消えてゆく人々と似てゐるに違ひない。きつとこの人も、周囲の連中と同じ考へ方をするに相違ない。今時の男たちときたらみな、生きがひを求めて、ひたすら肉慾に耽り、墮落の結果、一切の悲哀を空虚な嘲弄で片附けられると思ひ込んでゐるのだが、それといふのも、どうにも慰めやうのない悲哀が恐らく世にはあるらしいといふことを、想像する力さへもはや失つてゐるからなのだ。わたくしを愛するのだつて! … まだ愛なんて世の中にあるのかしら!― 春があの人の血潮の中で燃えてゐるけれど、一度有頂天になつたら慾望も消え失せてしまふだらう。もし今夜あの人の言ひなりになつたら、明日は棄てられて今よりも孤獨になるだらう。 (『未來のイヴ』第1巻第16章より)   

今朝起きたら、辺りは雪景色だった。雪も降っていて、これでやっと正月の雰囲気である。でも日中は青空も見えて、薄雪はすっかり消えてしまった。正月気分になるならないは別として、やっぱり雪は無い方が願ったりである。明日も雪の予報である。お正月にはまたこの『未來のイヴ』を、白い雪の「悲哀」の中で再読しよう。