一昨日、昨日と「楕円形のイヴ」を掲載したが、この「イヴ」にはクリスマス・イヴとリラダンの「未來のイヴ」との連想があった。「イブ」ではなく「イヴ」なのである。仏蘭西文学者・齋藤磯雄(1912-1985)全訳になる限定版『ヴィリエ・ド・リラダン全集』(東京創元社)が発行されたのは昭和49年からで、発売後一週間で品切れになったという。僕は限定版を買いそびれてしまい、いやそうではなくて、当時まだ貧乏学生だったから買えなかったのだ。それ以後、ずーっといつかの発行を待っていたのである。そして昭和52年3月、ついに写真掲載のこの普及版『リラダン全集』の全五巻が順次発行され始めたのだった。他人から見ればバカな話だろうが、この時、とても嬉しかったのを覚えている。
そこでこの第二巻目に、リラダン伯爵(ジャン・マリ・マティヤス・フィリップ・オーギュスト・ド・ヴィリエ・ド・リラダン 1838-1889)の長編小説『未來のイヴ』が掲載されている。トマス・エジソンによって製作された才色を具えたアンドロイド「イヴ」は僕の理想の女として、爾来、僕の胸の奥の奥に仕舞い込まれたのである。「イヴ」という文字と発音を聞くたびに、それは理想でありスフィンクスである女を喚起するのである。知性が肉体を持ち、肉体が形而上学であるのである。
― ひたすら官能の快樂だけを追求する心が、どうやら、この新世代の人間共に於いては、あらゆる尊い感情を亡ぼし尽してしまつたやうだから(顔を伏せて地面ばかりを眺めてゐるこの連中の間にわたくしもまた暫しの間はまぎれ込んでゐるわけだが)、神聖な愛や情熱のことを話してくれるこの年だって、やはりこの世紀に現れては消えてゆく人々と似てゐるに違ひない。きつとこの人も、周囲の連中と同じ考へ方をするに相違ない。今時の男たちときたらみな、生きがひを求めて、ひたすら肉慾に耽り、墮落の結果、一切の悲哀を空虚な嘲弄で片附けられると思ひ込んでゐるのだが、それといふのも、どうにも慰めやうのない悲哀が恐らく世にはあるらしいといふことを、想像する力さへもはや失つてゐるからなのだ。わたくしを愛するのだつて! … まだ愛なんて世の中にあるのかしら!― 春があの人の血潮の中で燃えてゐるけれど、一度有頂天になつたら慾望も消え失せてしまふだらう。もし今夜あの人の言ひなりになつたら、明日は棄てられて今よりも孤獨になるだらう。 (『未來のイヴ』第1巻第16章より)
今朝起きたら、辺りは雪景色だった。雪も降っていて、これでやっと正月の雰囲気である。でも日中は青空も見えて、薄雪はすっかり消えてしまった。正月気分になるならないは別として、やっぱり雪は無い方が願ったりである。明日も雪の予報である。お正月にはまたこの『未來のイヴ』を、白い雪の「悲哀」の中で再読しよう。