『マイ・スキップ7月号』の記事

2016-06-29 | 日記

2月号から連載している「パブリック・アート」も5回目で、先月号に僕のコレクション展の案内記事でお休みしたから、5回目と言うことはもう6ヶ月、つまり早いもので、もう半年が経ったということである。『マイ・スキップ7月号』 の明後日の発行を前に、ここに「パブリック・アート」の記事を掲載する。  

  


雨の止む間に

2016-06-23 | 日記

     

今日は曇天の、雨が降ったり止んだりの日だった。雨が止んだあいだに独身男が一人で暮らす庭の花をヌスミ撮った。自然の中の花はどうしてこんなに美しいのだろう。色といい、ふくよかさといい、花びらの薄さといい、まとまりといい、その品性といい、自然の中の花はなんとオシャレなんだろう! ちょっと意味合いが違うかも知れないが、先日紹介した『暮しの手帖』の一文にこんなことが書いてあった。「ほんとうのおしゃれは、明日の世界を作る力になる」、「もっとあなたは美しくなれる」と。オシャレは明日へのよろこびなのである。オシャレとはゼンゼン関係ないけど、たまたま読んでいたのが金子光晴(1895-1975)の詩集だったので、「女こそは花の花」という光晴らしい言葉にひかれたばかりに「女への弁」という詩を書き写す。

      女のいふことばは、いかなることもゆるすべし。

      女のしでかしたあやまちにさまで心をさゆるなかれ。

      女のうそ、女の気まぐれ、放埓は

      女のきものの花どりのやうにそれはみな、女のあやなれば、

      ほめはやしつつながむべきもの。

      盗むとも、欺くとも、咎めるな。

      ひと目をぬすんで、女たちが他の男としのびあふとも、

      妬んだり面子をすり廻したりすることなかれ。

      いつ、いかなる場合にも寛容なれ。

      心ゆたかなれ。女こそは花の花。

      だが、愛のすべしらぬ偽りの女、その女だけは蔑(さげす)め。

      それは女であつて女でないものだ。 ( 金子光晴著 詩集『 女たちへのエレジー 』 から )

 


川岸にて

2016-06-22 | 日記

     

     

     

夕方、近くを流れる刈谷田川の川岸まで散歩に出た。久し振りに川辺に降りて、緑の濃くなってきた周りの風景。もうじき暑い夏が来る。川面に映る空の色が光っている。藻が集まって緑の島々を作っているのは、水が淀んでいるせいか。このところあまり雨が降っていないからだろうか、川の流れは流れではなくなって、それにしても鬱蒼とした河床である。川を見に、僕は土手を降りる。また、川を渡って僕は藪の中に隠れる。一日は、まだ河原の石に挟まったままである。

 


「ステーキの焼き方」

2016-06-21 | 日記

         

ステーキはただ焼くのがいい。以前の東京暮らしでは、たまにステーキが食いたくなると、真っ赤に熱したフライパンで分厚い肉を塩だけで焼いて喰らうのがご馳走だった。美味しかった!

この『暮らしの手帖』で教えられた通りに焼いて見た。肉が噛み切れなかった。今度はいい肉を買おう、と思う。たまに食べるのだから、いい肉を買おう 「すっぱいは 美味しい」 のである。

 


暑いいちにち

2016-06-18 | 日記

    

    

上の写真が東の空、下が西の空。で、時間は午後七時過ぎで、まだ夕暮れという感じで空も水色が透き通っている。電線の黒いラインは空に描かれたドローイングである。電柱と言い電線と言い、それらのシルエットが実に一日の終わりを象徴するから、夏の夕暮れは寂しそうなオトコの背中でもある。月もときどき「古い池」や田んぼに落下することもあって … 。フランスの詩人ジャン・コクトー(1889-1963)は書いた、自分の耳は貝の殻で、海の声を聴く、と。夕暮れの田んぼ道に佇んでいると、僕は一匹の蛙で、月や桃色の雲が映る水田にボッチャンである。