年末に 『 マネ 』

2018-12-30 | 日記

             

この写真は今月の17日に降った初雪の日の写真である。ストックしておいたもので、いつ掲載しようかと思っていたのだったが、日が空いてしまって、それでつい忘れていてしまっていて、だけどどうも掲載したくて、それで今になってしまったのだった。意味があるのかないのか、あんまり意味はないのだったが、掲載しておけばまたいつか思い出すだろう、ということなのである。いつも通る国道351号線沿いのコンビニ店の裏から西谷川を望んでいる。

それで、今日はもう12月30日の日曜であった。久し振りに何もせずに家で過ごしたが、僕のところは新潟県のほぼ真ん中の中越地方の山間部なのだが、報道で言うほどの “ 最大級の年末寒波 ” はなくて、穏やかな一日になった。このまま天候が荒れてくれなければいいのだが、と思う。それで今日は一日中何もしなかった。ただ、先日来からの読書が続いていて、どうもそれを読まずにはいられなかったからその本を読んでいたのだった。三浦篤著『 エドゥアール・マネ 西洋絵画史の革命 』( 角川選書版 平成30年10月19日刊 ) である。ここでその読後感を書くつもりはないが、ただ気に入った文章がいくつかあったから、その中のひとつをここに備忘録として書いておくことは、僕にとってはまた大切なことであるので、以下その抜粋である。

ベラスケスとマネは西洋絵画史をレアリスムの視点から見たときに、要の画家であると位置づけることができる。両者ともに現実の理想化を拒否する冷徹な写実表現を実践するが、それは単に卑俗な現実の再現を目指すものではない。あらゆる存在を等価なまなざしで捉える無差別なレアリスム、卑俗なものに尊厳と輝きを与えるレアリスムにほかならない。現実の特殊な相を保持しつつ、絵画の造形力によってそれを典型化する、いわば高貴化する点が肝要で、その意味では絵画芸術の栄光に捧げられたレアリスム絵画と言ってもよかろう。そうした歴史的系譜において、タブローにおける古典的な現実表象の頂点をベラスケスに見て、近代絵画におけるその臨界点と崩壊をマネに見ることが可能となる。二十世紀からマネを捉えて「モダニズム絵画」の創始者に据えるだけでは、マネのポテンシャルを汲み尽くしたことにはならない。未来も知れぬ十九世紀後半の時点に降り立ってみれば、マネの作品に変革の斬新さのみならず、タブローの崩壊、伝統絵画の黄昏を感じることはむしろ自然だったと思われるのである。

マネのレアリスムと言うのは、絵画の造形力によって「卑俗なものに尊厳と輝きを与える」のだった。マネ以降の「近代絵画」を見る時にはぜひこの言葉を参考にして見てみたいと思うのである。革新とか斬新さとかを感じるのは、どうも僕ではなかなか感じられないから、少しでもこういう論文から参考になるものを学習しておきたいと思うが、なかなか身に着かないのが現実で、これもレアリスムのひとつだろうか。

 


「 … そして人生について 」

2018-12-17 | 日記

           

マルセル・デュシャン (1887-1968) の『 アフタヌーン・インタヴューズ 』を読む。掲載した本の写真がちょっとボケてしまったが、これもまた僕のいい加減さで、ま、ご寛恕願うとしまして、ところでこの表紙のデュシャンの写真をとても気に入っているのである。本の内容も内容で面白いのだが、どうもこの写真が気になっていて、この本の副題になっている「アート、アーティスト、そして人生について」という言葉がこの写真から発せられているのである。撮った写真家はアーノルド・ニューマン (1918-2006) である。家にはストラビンスキーを撮ったニューマンの展覧会ポスターを掛けているが、このデュシャンのポートレートのポスターはないのだろうか。本文を読む前にこういうことがあって、それを書いて見た。
さて、本文なのだがデュシャンはインタビュアーのカルヴィン・トムキンズの「アーティストは自分を至高の存在だと考えるべきではない、と言うのですね。」という質問に答えて曰く。

そう、絵というのは見物人 (ここでデュシャンは「鑑賞者」という語を避けている) との相互作用で出来ていく、ということ。それなしには、屋根裏にしまい込まれて消えてしまうでしょう。じっさいにアート作品が存在するということはなくなるでしょう。いつもふたつの極が基本にある。見物人と、つくる人。その双極作用が散らす火花が、何かを産み落とす — 電気みたいに。アーティストが思考を生産するからといって、アーティストは偉大な思考者だ、なんて言っちゃあいけない。見物人が「 何かしらすばらしいものをつくりましたね 」と言うまでは、アーティストは何も生産していない。決め手のひとことを吐くのは見物人なんです。

これを書いているのは今夜で、また寝床に入って続きを読もう、と思う。雨も大分降っているようだ。雨音が激しく音をたてているのが屋根で分かる。そう言えば、先ほどなんかは相当な大きな音の雷が鳴っていたから、雪の予兆だろうか。いずれにしてもここまでくれば、雪が降ってもおかしくないから予兆でも何でも、冬の寝床の中の読書は快適なのである。

 


初雪は大雪になった

2018-12-09 | 日記

         

昨夜から降り続いた雪は、今日も一日、止むことなく降り続いている。午前中のブラインド越しには、雪景色が厚く見えているばかりである。昨夜と今日で積雪は30cmを越えているようだ。なので、今日一日で雪囲いをしたり、除雪車の通った後の雪掻きをしたりして、一日が終わりに近づいてゆく。こんな日には一日中、閉じこもって本を読んでるのが最高なのに、と思いつつ。一昨日、たまたま買ったマルセル・デュシャン (1887-1968) の『アフタヌーン・インタヴューズ』(河出書房新社 2018年刊) を読みたかったのだった。寝酒変わりにでも読もうか … 。

 


天使またはやさしい鳥

2018-12-04 | 日記

          

和紙に描かれたこの鉛筆デッサンは新井美紀さんが描いたものである。現在、胎内市美術館で新井さんの個展 “ OIL SPIRIT ” が今月22日(土)まで開催中である。
紙のままに頂いた絵をどうしようかと、この数日思いあぐねていたが、先日のブログにも書いたように、古額縁が手に入ったので、その実験的額装を兼ねていろいろに入れてみた結果、この額装に落ち着いたのである。最初にこの絵を見た時の印象が今も変わらないのは、やはり「鳥」なのである。デッサンといい、額縁という環境といい、いい絵になった、と思う。そして、いい絵には雰囲気 (atmosphere) というものがあるが、その「雰囲気」を大切にしたいものである。絵の枠外にタイトルを勝手に “ OISEAUX ” と命名したのは他でもない僕である。最初の印象はやはり忘れ難いのである。

             それは正午 やさしい鳥が窓に衝突する。
             それは愛人の窓である。暗黒の真珠貝は法典である。
             墜落した小鳥は愛人の手に還る。
             蝸牛を忘れた処女は完全な太陽を残して死ぬ。
             舞踏靴は星のようにめぐる。
            
 ( 瀧口修造著『詩的実験』の「ポール・エリュアールに」から抜粋 )           

 


夜の “ ルーデンス ” ( 遊ぶ )

2018-12-02 | 日記

          

最近、古い額縁がいくつか僕の手元にきたから、夜の静かな時間に、アレコレ自分の描いた絵をその額にあてて見て、アーデモナイ・コーデモナイと楽しい悩みを遊ぶのである。そして絵もまた、絵の中で単純と複雑の悩みを楽しむのである。晩秋からの夜は長い。この絵は今年10月28日に描かれていて、画面右下には下記の言葉を記す。

        音楽が聴こえて来るように色彩の中にも、そういうものがきこえてくる、ということは
        あるかも知れない。「あ・り・が・と・う」という言葉が音楽のようにきこえるように … 。