「 十三夜 」

2013-06-06 | 日記

           

                     表紙絵 : 蓬田やすひろ

集英社文庫版 『 たけくらべ 』 ( 1994年 第2刷 ) に 「 十三夜 」 が入っている。物語は、十三夜の晩、突然実家に戻った主人公・お関が、婚家でのつらい話を両親に打ち明けるシーンから始まる。一葉 ( 1872-1896 ) の文語文が作る明治の空気に、今日のこの日の深更、夜の帳に鳴き止まない蛙の音響が和す。父親に説得されて帰る道すがら、お関は車を頼んだが、車夫は互いに慕いあった幼なじみの録之助であった。しかし録之助はお関が結婚してからは、心を喪失していたのである。思わぬ再会を果たしたが、この短編最後の二人の別れのシーンが人間の宿命を描いていて、名作である。明治という当時の現代を生きた一若き女性、樋口夏子は心に何を抱いて逝ったのだろう、心に誰を抱いて逝ったのだろう。そして 「 十三夜 」 を残して … 。読んでいる夜という時間帯は、現在であるとか過去であるとかを越境するのである。別れのシーンを引用する。

「 録さん、これは誠に失礼なれど、鼻紙なりとも買つて下され。久し振りでお目にかかつて、何か申したいことはたんとあるようなれど、口へ出ませぬは察して下され。では私は御別れに致します。随分からだを厭うて煩らわぬように、伯母さんをも早く安心させておあげなさりまし。陰ながら私も祈ります。どうぞ以前の録さんにおなりなされて、お立派にお店をお開きになります処を見せて下され。左様ならば ( さようなら ) 」 と挨拶すれば、録之助は紙づつみを頂いて、

「 お辞儀申す ( 辞退する ) はずなれど、貴嬢のお手より下されたのなれば、ありがたく頂戴して思い出にしまする。お別れ申すが惜しいと言つても、これが夢ならば仕方のないこと、さ、お出でなされ、私も帰ります。更けては路が淋しゆうござりますぞ 」 とて空車引いてうしろ向く、其人 ( それ ) は東へ、此人 ( これ ) は南へ、大路の柳 ( おおじのなやぎ ) 月のかげに靡 ( なび ) いて、力なさそうの塗り下駄のおと、村田 ( 録之助の宿住い ) の二階も原田 ( お関の婚家先 ) の奥も、憂きはお互いの世におもうこと多し。

「 憂きはお互いの世におもうこと多し 」 とは、お互いそれぞれの境遇にあって、東も南も、二階も、奥も、この世の悲しみは深いのである。にもかかわらず、録之助もお関も生きて行かなければならないのである。