Galerie 412

2011-11-30 | 日記

                      

東京の三菱一号館美術館中庭の ヘンリー・ムーア のブロンズ。囲んで カフェ があり、冬の日の一日、この美術館で 「 トゥールーズ = ロートレック展 」 を見たあと、カフェ で談笑する。遠く、緑の芝を背景に ポーズ をとる 「 赤い マフラー の ブリュアン 」  のような大きな シルク の ルージュ の マフラー の、若き femme は冬の傾いた日差しに端整である。都会の レンガ の モダン な建築物は一時、巴里の カフェ の セピア の 「 失われた時 」 の文学を呼吸しているような、満たされた幻想に陥ってかつての日々が懐かしい。

街路樹の葉陰から漏れる遅い午後の日差しは穏やかにして、都会の喧騒はここまでは届かない。珈琲 カップ に注がれる琥珀の液体からは、過去の時間が揺らぎ漂い、向かいに座る品性ある婦人の ルージュ を溶かしている。ムーア の裸像は豊かに孕んでいるから、人生には希望があるのである。またこの瞬間にも流れ去って行く時間は二度と戻ってはこないけれど、しかしこの時間の記憶は永遠に消えない。消えない記憶の時間があるから ロートレック や ムーア が僕に希望をもたらす。これは芸術とかではなくて、単に毎日の当たり前の風景であり、淡々と生きて行く中で人々の背中を押してくれるのである。物体に過ぎないものが、われわれの精神をゆるぎないものにするのであるから、物体の造形は侮れないのである。デザインとはそういうものであろう。

以前 ブログ で紹介した 『 料治幸子展 舞踊絵巻-Ⅱ 』 が表参道の Galerie 412 で28日 ( 月 ) から始まった。参道の欅並木の枯葉が散っている今に残す同潤会 モダンアパートメント の一室に、冬の澄んだ空気が流れているのは、一人の ダンサー が静かに永遠の踊りを踊っているからだろう。永遠とは、または瞬間のことである。瞬間は永遠を孕み、永遠は瞬間の連続であろう。

Galerie 412 は、ジャコメッティやル・コルビュジエに感動した村越美津子氏が1974年にこのアパートメントの一室を画廊にした当時の ( 今も、である ) 大変モダンなギャラリーである。矢内原伊作、宇佐美英治らフランス文学者や詩人たちのサロンでもあった。文学・芸術を何より愛した人々が有名無名を問わず参集したのである。

季節は巡っているから再会は嬉しい。 『 料治幸子展 』 は12月3日 ( 土 ) まで。

 


デザインの素

2011-11-25 | 日記

             

同じ電気ストーブを撮って並べてみた。何がどうという訳ではないが、4つばかりではあるけど、同じものが並ぶと意味がありげに見えてきて、その意味を試しに考えてみる。

今夜は寒いのでストーブを今期初めて出したに過ぎない、のであるけれど、この灯りのような色が見ることによっても、いかにこの部屋が暖かくなるのか、ということでもある。 デザインは 「 必要 」 から生れてくるものだろう。 「 必要 」 なものとは、寒い時の暖かさである。


グラフィック・デザイン展で思ったこと

2011-11-24 | 日記

    

一般にグラフィック展の会場は、空気は明るく軽快で、それに爽快感がある。比べて、絵画や彫刻などいわゆる芸術といわれる展覧会々場は、少し重たい感があり厳粛な空気がある。写真のように、ここでは本やポスターなど紙で制作された印刷ものが多く、いわば商業的価値を追求したものであるから、何より人目を引かなければならない訳で、人目を引くアイディアはそれぞれに面白いものがある。

確かにシンプルで、キレイで、整然として、驚くものもあって、目を引くのだが、コピーも面白い。けれど、何かが満たされない。しかしいわゆる芸術は、悔恨の情が心臓を貫くほどに、告白が悲しい声で語られるほどに、一つの現実を目の当たりにしてくれるのだ。だがグラフィックデザインは、理想の幻想の夜毎の夢を提示しているのであった。

網膜が映す軽快な色彩や、薄い紙のグラフィックものも好きだが、しかし芸術は別格である。人の命は確かにロートレアモン伯爵のように短いけれど、 「 歌 」 は地上に残ったのである。今夜は冷たい大粒の雨が、風に吹かれて窓を叩きつけているのだが、しかしランプの灯りの下ではマルドロールの別世界の歌が歌われているのである。

「 苦悩にみちて、彼は外気の香りを吸おうと窓をひらく、太陽の光線がそのプリズムの光の発散をヴェニスのガラスとドンスのカーテンのうえに反射している 」

しかしだからこそ、この冷たい夜が一層現実なのであった。時に文学は、現実を確実にしてくれるのである。出発はここからである。

  


「 マルドロールの歌 」

2011-11-23 | 日記

      Ⅰ   Ⅱ  Ⅲ  Ⅳ  

本名 イジドール・リュシアン・デュカス、通称 ロートレアモン伯爵は1846年南米 モンテヴィデオに生まれ、1870年11月23日夜、未だ生きていたが、翌朝8時 モンマルトルのアパルトマンで誰にも看取られずに死んだ、と いう。25日、彼は埋められた。その間、短い生涯を掛けて 『 マルドロールの歌 』 一巻を世に歌った。

1968年人文書院刊、栗田勇訳 『 ロートレアモン全集 』 ( 粟津潔装丁 ) 。Ⅰ:外箱、Ⅱ:表紙、Ⅲ:付録冊子表紙、Ⅳ:付録冊子ダリ画ロートレアモン19歳のポートレート、Ⅴ:付録冊子ヴァロットン画ポートレートとデュカスの自筆手紙。

この “ マルドロール ” という甘美な固有名詞は実は、悪の別名なのであった。マルドロールは小さい頃、とても善良であったが 「 間もなく彼は、邪悪な生まれつきに気がついた。数奇なる運命!じつに幾年ものあいだ、彼はできるかぎりその性格をおしかくしていた。柄にもない精神集中をしたおかげで、一日と頭に血が逆上して、あげくのはては、そんな生活にはもうとてもこらえきれず、決然と悪の生涯に身を投じた… 」

「 マルドロールの歌 」 はマルドロールがその悪徳を賛美する 「 愛の歌 」 である。作者 ロートレアモンは 「 憂愁を勇気に、疑いを確信に、絶望を希望に、悪行を善行に、愚痴を義務感に、懐疑主義を信仰に、屁理屈を冷静さに、そして傲慢を謙譲におきかえる 」 若き詩人であった。そしてロートレアモンの 「 歌 」 は、ランボーの詩集と共に後のシュルレアリストたちのバイブルになった。   

 「 歌 」 は驚きに満ちていなければならない、 「 歌 」 の想像力は新しい地平の発見にこそあるのである。過去の 「 歌 」 の原理を覆さなければそれは 「 歌 」 とは言えなくて、もはや詩ではないのである。

何も文学に限った話でなくても、 「……ミシンと洋傘との手術台のうえの、不意の出会いのように美しい……」 可能性があるのが人生である。この一節だけでも既に僕には 「 愛の歌 」 である。