東京の三菱一号館美術館中庭の ヘンリー・ムーア のブロンズ。囲んで カフェ があり、冬の日の一日、この美術館で 「 トゥールーズ = ロートレック展 」 を見たあと、カフェ で談笑する。遠く、緑の芝を背景に ポーズ をとる 「 赤い マフラー の ブリュアン 」 のような大きな シルク の ルージュ の マフラー の、若き femme は冬の傾いた日差しに端整である。都会の レンガ の モダン な建築物は一時、巴里の カフェ の セピア の 「 失われた時 」 の文学を呼吸しているような、満たされた幻想に陥ってかつての日々が懐かしい。
街路樹の葉陰から漏れる遅い午後の日差しは穏やかにして、都会の喧騒はここまでは届かない。珈琲 カップ に注がれる琥珀の液体からは、過去の時間が揺らぎ漂い、向かいに座る品性ある婦人の ルージュ を溶かしている。ムーア の裸像は豊かに孕んでいるから、人生には希望があるのである。またこの瞬間にも流れ去って行く時間は二度と戻ってはこないけれど、しかしこの時間の記憶は永遠に消えない。消えない記憶の時間があるから ロートレック や ムーア が僕に希望をもたらす。これは芸術とかではなくて、単に毎日の当たり前の風景であり、淡々と生きて行く中で人々の背中を押してくれるのである。物体に過ぎないものが、われわれの精神をゆるぎないものにするのであるから、物体の造形は侮れないのである。デザインとはそういうものであろう。
以前 ブログ で紹介した 『 料治幸子展 舞踊絵巻-Ⅱ 』 が表参道の Galerie 412 で28日 ( 月 ) から始まった。参道の欅並木の枯葉が散っている今に残す同潤会 モダンアパートメント の一室に、冬の澄んだ空気が流れているのは、一人の ダンサー が静かに永遠の踊りを踊っているからだろう。永遠とは、または瞬間のことである。瞬間は永遠を孕み、永遠は瞬間の連続であろう。
Galerie 412 は、ジャコメッティやル・コルビュジエに感動した村越美津子氏が1974年にこのアパートメントの一室を画廊にした当時の ( 今も、である ) 大変モダンなギャラリーである。矢内原伊作、宇佐美英治らフランス文学者や詩人たちのサロンでもあった。文学・芸術を何より愛した人々が有名無名を問わず参集したのである。
季節は巡っているから再会は嬉しい。 『 料治幸子展 』 は12月3日 ( 土 ) まで。