廃校舎に展示する

2019-08-12 | 日記

 

          

『大人の自由研究』展での展示風景。この展覧会は既に廃校になった旧長岡市立西谷小学校の校舎を借りて行われているもので、先日の11日からの開催で、会期は今月の18日(日)までである。開催時間は10時から16時までとなっている。
いまだに外部も内部もきれいな校舎であるのが、なんとも惜しい気がしてならない。それぞれの教室も、今も子供達の元気な声が聴こえてきそうである。

「大人の自由研究」とは、「廃校を使って、大のオトナが自由研究の発表をやってみた」ということである。僕の作品は3階の音楽教室内にある狭い準備室を使わせてもらっていて(掲載写真)、ここに紹介した他にもう2点あって、2階と3階にある狭いエレベーター室に展示している。県内の造形作家や写真家やその他の方々数十人が出品していて、短い会期ではありますが、ぜひ見に来て下さい! 僕が思っていたより、一つにはロケーションのせいか、主催者たちの廃校なるものへの強い哀惜の思いが反映されたのか、とても密度のある「研究」発表になったように思う。

主催:とちラボ 里山くらし研究所
会場:長岡市(旧栃尾市)中1426 旧西谷小学校

 


革装の本

2019-08-04 | 日記

            

堀口大學 (1892-1981) の詩集『東天の虹』(昭和51年 彌生書房刊) 。版画家・吉田穂高 (1926-1995) の7枚のすべてにサインを入れた挿画 (木版) がページのところどころに綴じられてある。版画家の両親も共に著名な木版画家である。詩は37編を掲載する。「歌のいずみ」という詩を紹介する。

    

                    喜怒哀楽の

                    それぞれに

                    色とりどりの

                    声があり   

                    それがわたしに

                    歌わせる

 

大學の使う詩語は、割と日常語に近くて、また地口のようなものも入れていてユーモラスな感じがする。時には大胆な “エロ” い文字も詩文に入れて、結構日本語の「軽み」や「掛詞」のようなダブルイメージを想像させて、僕はこういう日本語も好きである。漢語がちりばめられた詩文もいいが、大學の何だかとてもオシャレチックな詩文も好きなのである。余白がページの90%以上はあろうかと思わせる本に高価な価格を付けるのは「いかがなものか」と。しかしそうではなく、逆に、この余白に広がる詩文の余韻を楽しむには、やはり「90」は欲しいとこだろう。いい本は余白がものを言う。

 


PRETENDER

2019-08-02 | 日記

                 

 

                 落下した天体のカケラに

                 時が経ち、百合の花が咲く。 

                 その花の芳香はいつか、しかし消滅するだろう

                 この地上から。

                 しかし芳香の思い出は、夜から夜に語り継がれるだろう 

                 ここにこうして音信を待つ。何の?

                 待つことは憂いでいっぱいである

                 憂いを待つ人。

                 時が経ち、幸いは憂いの中にもひそんでいる。

 

この絵はもうだいぶ前に描いたもので、絵の日付を見ると2008年だから僕がちょうどUターンしてきた年である。そして3月になっているからUターン寸前の東京時代に描かれたものである。当時の資生堂の “ZEN” という商品の広告を張り付けている。この商品が何だったかは思い出せないが、しかしタイトルに “PRETENDER” (見せかけの人) を付けているから、きっと “ZEN” (善) なるものへの、また、 (全) なるものへの意識があったかも知れない。今はもう昔になってしまった。
添えた言葉も当時のもので、長い東京暮らしに別れを告げて両親の元に戻って行く、これも一つの、過去への愁いである。ここにも、僕と言う一人のプレテンダーが潜む。
これを書きながらも、やっぱり暑いのは暑いから、いくら涼し気な青い絵を選んでも、こう暑くては氷水に敵うものはない。

 


ブラインド越しの白昼

2019-08-01 | 日記

          

わが村のお寺に盆参に来たといって、遠方の親戚のじいさんに早くに起こされてしまった。もうすでに暑い日差しである。西瓜を食べてもらって、氷水を飲んでもらって、彼は早々に軽トラで寺に向かって行った。寝苦しかった寝不足のアタマがボーっとして、彼が行ってしばらくの間椅子に座ってウトウトする。朝の外光を遮って、昨夜の本を膝に置いたままウトウトしている。今日は何も書くことはないな、とウトウトしている。と思っていながら、ブラインドをひねって写真に納めたのがこの外光である。見るからにもう高温度を感じてしまうのである。
もう少ししたら僕も、お寺に母の「新盆」のお参りに行かなければならないが、眠れぬ昨夜に読んでいた本が、松永伍一 (1930-2008) の『 詩集 割礼 』( 昭和51年 国文社刊 ) である。詩人には生前、井上三綱 (1899-1981) の画集『豊饒なるフォルム 井上三綱の世界』(1995年 NHK出版刊) 編集の折には大変お世話になって、石神井のご自宅には何度も日参したのを懐かしく思い出すのである。その時の先生の執筆された「井上三綱論」の原稿はとても美しかった印象があって、全80枚くらいの原稿だったかに、訂正した箇所はほとんどなかったのではないだろうか。あったにしろその箇所はきれいに直されていて、ちょっと見には分からないようにきれいに直されていた。今もその原稿が、当時、僕が勤めていた会社が作った「群馬ガラス工芸美術館」の収蔵庫に保管されているに違いない。いつかこの原稿にお目にかかれると嬉しい。ああ、もうお寺に行く時間である。