今日も一日暑かった! 火の玉のような夕陽が沈んで行く。直線になった二筋の白い雲が夕暮れを清らかなものにしている。こういう光景を目の当たりにすると感傷的な想いに駆られてしまうことがあるけど、論理より心理が勝るからだろう。5時までは理知的であり、5時からは理知が開放されて情緒的になるのが人情というものである。
かなしみではなかつた日のながれる雲の下に
僕はあなたの口にする言葉をおぼえた、
それはひとつの花の名であった
それは黄いろの淡いあはい花だつた
僕はなんにも知つてはゐなかつた
なにかを知りたくうつとりしてゐた、
そしてときどき思ふのだが一體だれが
だれを待つてゐるのだらうかと。
昨日の風に鳴つてゐた、林を透いた空で
かうばしいさびしい光のまんなかに
けふもまたそれはあの叢に咲いてゐる
思ひなしだか悔いのやうに ― 。
しかし僕は老いすぎた 若い身空で、
あなたを悔いなく去らせたほどに。
これは立原道造 ( 1914-1939 ) のソネット 『 ゆふすげびと 』 という詩だが、この写真の夕陽のように、立原のソネットは夏の一日の終わりを歌っていて、 「 あなた 」 との終わりを歌っている。夕陽もまた火の玉と言っても、一日の終わりの 「 かうばしいさびしい光 」 であった。黄色い淡い 「 花の名 」 をおぼえたのは 「 あなたの口にする言葉 」 からだった。夕陽が、思い出の 「 あの叢に咲いてゐる 」 のである。
「 若い身空 」 は遠くなって、もう僕は 「 老いすぎ 」 てしまった。なぐさめは、一日の終わりのこの 「 かうばしいさびしい 」 清らかな夕景である。それにしても立原の詩を曲解してしまったような … 。