熱い夕陽が沈んで行く

2012-07-31 | 日記

        

今日も一日暑かった! 火の玉のような夕陽が沈んで行く。直線になった二筋の白い雲が夕暮れを清らかなものにしている。こういう光景を目の当たりにすると感傷的な想いに駆られてしまうことがあるけど、論理より心理が勝るからだろう。5時までは理知的であり、5時からは理知が開放されて情緒的になるのが人情というものである。

  

      かなしみではなかつた日のながれる雲の下に

      僕はあなたの口にする言葉をおぼえた、

      それはひとつの花の名であった

      それは黄いろの淡いあはい花だつた

      

      僕はなんにも知つてはゐなかつた

      なにかを知りたくうつとりしてゐた、

      そしてときどき思ふのだが一體だれが

      だれを待つてゐるのだらうかと。

 

      昨日の風に鳴つてゐた、林を透いた空で

      かうばしいさびしい光のまんなかに

      けふもまたそれはあの叢に咲いてゐる

      

      思ひなしだか悔いのやうに ― 。

      しかし僕は老いすぎた 若い身空で、

      あなたを悔いなく去らせたほどに。

 

これは立原道造 ( 1914-1939 ) のソネット 『 ゆふすげびと 』 という詩だが、この写真の夕陽のように、立原のソネットは夏の一日の終わりを歌っていて、 「 あなた 」 との終わりを歌っている。夕陽もまた火の玉と言っても、一日の終わりの 「 かうばしいさびしい光 」 であった。黄色い淡い 「 花の名 」 をおぼえたのは 「 あなたの口にする言葉 」 からだった。夕陽が、思い出の 「 あの叢に咲いてゐる 」 のである。

「 若い身空 」 は遠くなって、もう僕は 「 老いすぎ 」 てしまった。なぐさめは、一日の終わりのこの 「 かうばしいさびしい 」 清らかな夕景である。それにしても立原の詩を曲解してしまったような … 。

 


ミステリアスなドアノー

2012-07-30 | 日記

            

ロベール・ドアノーの “ The Typing of the Vert Galant , 1947 ” 。 この4月に東京都写真美術館でドアノーの生誕100年の展覧会があった時の、記念に買った絵ハガキの内の一枚。

1947年パリ、セーヌ川シテ島にあるヴェール・ギャラン公園。向こうに見える橋はポン・ヌフだろうか。戦後二年目の、今頃のような季節である。ヴェール・ギャランでタイプライターを打つ、離れて座るサングラスの女のコスチュームは軽装だが、しかし、傍らにある鞄が普段女性の持つそれではなくて、何だかとてもビジネスライクであるし、こういうロケーションで、こういう女の登場はちょっとミステリアスな感じもして、ドアノーは何を撮ったのだろうか。眼の表情が見えない分、女はタイプに集中している。その雰囲気からして決して恋文ではあり得ないだろう。周囲の弛緩を破るひとつの緊張感があるように思う。平凡な日常の中に、何か非日常を一つ加味すること、見る人に謎を一つ提示することは、一枚の写真がより広がり深まっていくのである。

 


巫女の舞

2012-07-29 | 日記

                

先日の 「 火祭り 」 でのシーン。暗闇の中で三人の巫女 ( みこ ) が鈴を振りながら舞う。五穀豊穣と人々の安寧を願い、処女の舞を神に捧げ奉る白い装束は、ひらひらと蝶のようであった、御舟の 『 炎舞 』 の蝶 ( 7月14日のブログ参照 ) さながらに。思うに、この名画で炎に舞う蝶は巫女の化身だったのかも知れない。

  思ふこと ひとつ唯あり 神うけよ もゆる火中 ( ほなか ) も 乞ひて走らむ ( 『 山川登美子歌集 』 より )

 


「 舞待夢 」 な夕べ

2012-07-28 | 日記

       

古民家レストラン 「 舞待夢 」 ( 柏崎市西山町別山5944・TEL0257-47-3511・090-5762-1502 ) から見える少しふっくらした上限の月は冴えていた。営業が終わって 「 舞待夢 」 の玄関先でしばらく見ていたが、見る環境と心情によって、同じ天体がさまざまな表情を持つのである。

廃屋になろうとする家が、オーナー夫妻の思いのこもった手作りの改修によって救済され、再び築140年が蘇生するのである。モノには命があるのである。 「 舞待夢 」 にあるのはそういう蘇生という atomosphere である。料理の素材もこの庭で採り、背後にある日本海の幸である。

見る環境と心情によって、と書いたが、気づこうとしなければ一瞬にして通過してしまう人生の時間を、時には立ち止まって、わが身の環境と心情に思いを致すことは、そんなに無駄なことではあるまい、と思う。 「 舞待夢 」 とはそういう my time のことである。 この静かな夕べに、流れる風が気持ちいい。

 


女を見る冷静さ

2012-07-27 | 日記

荷風 『 断腸亭日乗 』 より昭和二年 ( 1927年 ) 7月25日の項。忘れていて、前から気になっていた一文である。25日に掲載しようと思っていたんだけど、ずれて今日になってしまった。ずれたからと言って別に何の問題も無いのだが、荷風先生の 「 小ぎれいに住む 」 というのが面白い。女と小ぎれい、ということの視点。

「 晴雨定まらず。梅雨の如し。午頃 ( ひるごろ ) お久来りて家一軒借りて静に暮らしたしと言ふ。余去年よりそれとなくこの女の性行を見るに、正直にて利慾の念なくかつ才智ありて文字を解すれども甚 ( はなはだ ) 怠惰にて炊事裁縫を好まざるが如くなれば、家を持たせやりても小ぎれいに住むことは出来がたきやに思るる故、その中涼風立つ頃ともならばよきやうに取りはからふべしと荅 ( こた ) へ置きぬ。 ( 以下、略 ) 」