アーノルド・ニューマンのような …

2017-05-26 | 日記

        

直線的な室内風景写真。僕の好きな写真家のひとりにアーノルド・ニューマン (1918-2006) がいるが、彼の写真集を見ていると共通して直線がとても美しく感ぜられるのである。どうしてか分からないが、特に、ピアノを手前に大きく写して左肘をついたストラビンスキー (1882-1971) のポートレートの、ピアノの直線が美しい。ということで、掲載した写真は家の玄関である。今日は夕方に強く雨が降った。

 


乳房の季節

2017-05-23 | 日記

    

     

昨日は一日中かかって縁側の簾を、この薄青色のブラインドに替えた。夏の強い日差しに室内がとても暑くなるから、遮光機能を持つというブランドのブラインドに交換した。簾も長年使っていると破けたりしていて、日除けになっていなかった。積年の思いだったが、重い腰をやっと上げて交換したのだった。今朝の起きがけには腰がヤケに痛かったが、ま、痛みには替えがたいものがあって良かった。ブラインドの今朝の写真である。この数日は暑い日が続いていて、もう夏の日差しが来ている。六月を待たずに更衣(ころもがえ)である。

未明の床の中で丸谷才一(1925-2012)の本を読んでいて、西東三鬼(1900-1962)の句「おそるべき君等の乳房夏来(きた)」というのが紹介されていた。丸谷は「これは言ふまでもなく女体を歌ふ。女の体を恐れかつあこがれる。あるいはマンジュウ怖いみたいなもので、熱烈に求める。夏は恋情をそそり、高め、男女の仲を乱れさす。これは大兄も(いまこのページを読んでるあなたです)身に覚えがあるでせう」と言う。更衣は女性の乳房がいよいよ隆起する季節なのだ。萌え出づる乳房よ畏み畏み恐るべし、である。昔読んだ西脇順三郎の詩に「アン・ヴァロニカ」というのがあった。生物学の教授とアンはアルプスへ駆け落ちをする一週間前に、彼女は自分の故郷の家に別れに来ていた。恋の心で一ぱいになった彼女は懐かしい庭を見ながら、そして鬼百合の花びらを口にしながら、髪を細い指でかきあげながら言うのだ、「肉体も草花もあたしには同じだわ」。

脈絡のない話になったが、ブランドのブラインド、乳房のブラ、そしてヴァロニカの駆け落ち。やっぱり夏が近づくとトタン屋根が熱くなってどうしようもないように、頭もどうしようもなくなってしまう。

 

 


栃尾鳥瞰

2017-05-22 | 日記

 

       

長岡市栃尾美術館のある高台に立って、街の中心街を撮る。四囲を山で囲まれた地形は面白い。冬になると雪に埋没するこの街に、僕は愛着がある。立っている後ろには山頂が平らに均された城山があり、かつてこの山頂に栃尾城があったという。上杉謙信公が景虎という名のまだ幼年の頃に、この栃尾城に住まっていたという。僕が高校生の頃、高校が地元だったからこの城山には何回か当時のガールフレンドとハイキングした懐かしい思い出の山でもある。思えば「青春の山」である。

40数年前の記憶からすると、今の町並みはとても明るくなったようで、白い街になったという印象である。若い人たちが数多去って行くこの街を僕は面白い、と思う。また、去らない若い人たちと他所からの定住者がいるから、また僕は面白いと思う。思うに、「始まり」はこの街からであってもいいのである。老いも若きも、それぞれに「青春の山」がある。

 


未完の絵画「佐藤美紀展」

2017-05-20 | 日記

新潟県見附市の “ ギャラリーみつけ ” で佐藤美紀さんの個展が開催中である。会期は明日21日まで。僕は開催日初日に見に行って来たが、初日だけあって来場者の方々も多く、ご本人も対応に追われていた。僕は彼女の個展は初めて見るので、今までには数点は見ているのだが、こんなふうにまとまって見る機会は今回が初めてなのである。全てキャンバスに描かれた油彩作品で、大きなものはF100号はあるという。どの作品もクリアーな、色彩鮮やかで明快な画面になっている、と思う。明日は最終日なので時間は午後3時まで。

     

     

     

     

     

絵画が人間の内部の世界を描き始めたのはいつからだろうか、精神科医であったアンドレ・ブルトンが超現実主義を提唱したのが1924年であった。以来、世界の絵画シーンに超現実絵画なるものが席捲し、現在もその影響下にあると言っては言い過ぎだろうか。しかしここでわれわれの内部を求めようとするのは人間の素朴な要求であると思う。ブルトンは人間の無意識の世界を求めたのである。瀧口修造の言う「この素朴な動機は人間を全体としてとらえようとする原始以来の芸術の記憶につながるものだからで…」ある。人間の内部世界は生きている限りは、留まりなく流動しているものであって、絵画と言えどもそれを定着し、捕まえることはできない。従って、内部を描こうとすることは永遠の未完作品にならざるを得ないのである。僕は割と「未完」というものに愛着を抱くのである。「未完」であることは、それは常に生命していることだからである。新しい芸術はこの「未完」から発生してくるものだ。自然は単純な繰り返しをしながら命をつないでいるが、しかしいつも新しいものを芽吹く。あえて、絵画もまたそうであってほしいものである。マンネリズムに陥らずに、どこかにパルピテーション ( フレッシュなドキドキ感 ) がなければ絵画の生命はないのである。