朝日

2018-11-18 | 日記

          

一昨日の、朝の守門岳から昇る太陽。ちぎれた厚い雲の浮遊しているのが、空の青さを際立たせているようでもある。朝日を目指して、雲の群れが守門の頂上に向かっているようでもある。こういう風景を見ていると、自分が漂白の境涯に佇んでいるような気持になってくるが、実際、人生そのものを旅と感じれば、それはそうに違いないと思われて、いずれはいつか、誰でも我が身を「山野に跡を隠さん」のである。そのように日は昇り、雲は漂い、時は流れて行く。

 


マッチ箱の絵を額装してみる

2018-11-11 | 日記

            

昨日、西洋骨董屋さんで古いマッチ箱を見つけて、その絵柄に誘われて見入っていて、値段を聞くと、「 差し上げます。」と言うではないか。それには、一にも二にもやはり同じお店で買ったこの額縁に感謝するのであった。その日の内に早速、相当に汚れていたガラスと額縁をきれいに洗うのである。何より先に、自分の趣味に走ることは実にストレスが溜まらないのだから、これもまた一種の僕がする僕自身への「介護」なのかも知れない。
従って、今日のこの天気のいい日に、このマッチラベルの額装作業となったのである。ラベルについて言えば、当然何だかとても古そうで “ キヤレッス ” というバーかクラブがかつてあって、それも銀座西6丁目尾張町ビル地下という住所がある。勿論、電話番号も記載されていて、これを見た読者の方々にもここには決して電話することなく、よろしくお願いします。ということで、絵の脇にサインらしきものが書いてあって、それは「青児」と読めるのである。つまりこのマッチラベルのデザイナーは東郷青児 (1897-1978) と言うことか。女性の描き方が、とてもモダンな雰囲気の感じがするのを感じないわけにはいかないのである。

 


文化の日にて

2018-11-03 | 日記

                

先日、本屋にブラっと入って文庫本コーナーを、それも岩波文庫が気になって物色していると、この『心』が目に入ったのである。僕は、著者のラフカディオ・ハーン (小泉八雲1850-1904) が書いたものはほとんど読んだことがなくて今日まで来たのだった。なので、文庫本でもあるし、それに副題に「日本の内面生活の暗示と影響」なんていう言葉にちょっと引っかかって、ハーンを読んでみようという気になったのである。それで、読み始めてみると、これが実に僕の興味を引いて面白い。まずは前半部に掲載されている「門つけ」という、盲目の三味線弾きの弾き語りの話がまずは面白かった。疱瘡にかかったために醜い女だったが、しかしいざ弾き語りを始めると、その歌は人の心の奥深くまで染み渡った、と言うのである。ハーンは書く、「やがて一曲弾きだした。すると、たちまち一種の魅惑が、聴きてのうえに落ちてきた。… みな、驚きの目をみはって、たがいの顔を見あわせた。それは、女の引きつったような醜いくちびるから、まるで思いもかけない奇蹟のような声が — 若々しい、深味のある、人の心に沁みとおるような甘さをもった、なんともいえぬ震いつきたくなるような声が、突如として泉のごとく、せせらぎのごとく、噴き湧いてきたからである。」さらに、

女がそうやって歌っているうちに、聴いているものは、みな物もいわずに、涙をすすりはじめた。歌の文句は、わたくしにははっきり聞き分けられなかったが、それでも、じっとそうして聴いていると、女の声につれて、日本の生活のうら悲しさ、うっとりするような甘さ、抑えに抑えられた苦しさが、惻々としてわたくしの心にかよってくるような気がした。それは目に見えないものを切ないほど追い求める気持、とでもいったらよかろうか。まるでなにか目には見えない物柔らかなものが、自分の身のまわりにひたひたと押し寄せてきて、おののき慄えているかのようであった。そして、とうに忘れ去ってしまった時と場所との感覚が、あやしい物の怪のような感じと打ちまじって、そこはかとなく、心に蘇ってくるのだった。その感じは、ただの生きている記憶のなかの時と場所との感じとは、ぜんぜん別種のものであった。

そして著者は、音楽とは何か?と問わずにいられないのである。

つまり、歌とは、また音楽とは、人間の悲哀、歓喜、あるいは恋情の、なにものにも教えられない自然のつぶやきであって、しかもその場合、そのつぶやくことばが自然の調べにかなっているもの、これが歌であり、音楽である。(中略) それならば、自分などにはとうてい解りっこのないこの東洋の小曲が、庶民階級の一盲女がうたったこのありふれた俗謡が、もともと異邦人であるこのわたくしの胸に、これほどの深い感情を呼びおこしたというのは、これはいったいどういうわけなのか?きっとこれは、あの歌いての声のなかに、一民族の経験の総量よりもさらにもっと何か大きなもの、たとえば、人間生活のごとく広大な、善悪の知覚のように千古不易な何物かに訴える力があったからなのだと、わたくしは確信する。

長々と引用にはしってしまったが、著者の直の表現のほうが、これは読む人に伝わるのである。やはり僕は、このブログを読んでくれる人に伝えたいから、ここに書くのである。

ところで、今日は祝日で、とても天気のいい「文化の日」になった。村の紅葉ももう盛りになった。クッキリと青空がその紅葉を鮮やかにしているのである。そしてこの村の「区民文化祭」の初日でもあった。明日まで開催である。僕の作品も6点ばかり展示させてもらったが、こういう「文化祭」には初めての出品だった。それでその会場風景と遠景に守門岳を見る紅葉の山間の写真を一緒に掲載する。僕のカメラでは紅葉が紅葉に写っていないが、これはカメラのせいだと思う。