本を立てる

2018-01-28 | 日記

       

ブックスタンドに立てかけてあるのは『ヘッセ全集 第13巻』(高橋健二訳 昭和32年㈱新潮社刊)。13巻はヘッセの詩集であるが、僕が気に入っているのはこの本の装幀である。字体がカッコ良くて、バックがベタに黒いのがいい。下に破れがあるのがちょっと惜しいナ。それで、装幀のデザインは日本画家の東山魁夷(1908-1999)であった。朱色のブックスタンドはMoMA製のもので、僕には本はやっぱりインテリアだ。しかし折角なので、この本の中から一篇書いておく。タイトルは「恋の歌」Liebeslied 。

          

          私は雄ジカ、そなたは小ジカ、

          そなたは鳥、私は木、

          そなたは太陽、私は雪、

          そなたは昼、私は夢、

          

          夜、私の眠っている口から

          金の鳥がそなたのもとへ飛んで行く。

          その声はさえ、翼はきらびやかな色。

          鳥はそなたに恋の歌を歌う。

          鳥はそなたに私の歌を歌う。

 


吹雪の日に

2018-01-25 | 日記

      

雪が吹き込んでくる玄関先の写真。気温も低いので外壁には雪がへばりついて凍結している。籠り居の日になった。今橋映子著『異都憧憬 日本人のパリ』(柏書房 1993年刊)を読む。本書は「文学あるいは芸術作品を具体的に検討することを通じて、19世紀以来のパリが、日本人にとって何を意味したのか、そしてさらに異文化理解という問題に関して、近代日本人が一体何を語ってきたのか、それを明らかにしようとする試みである」と言う。岩村透、永井荷風、高村光太郎、島崎藤村、金子光晴について論考している。序章として書かれた、19世紀パリの「ボヘミアン生活の成立」の論文が興味を引く。著者はジェロルド・セイゲル著『ボヘミアン・パリ—文化、政治、そしてブルジョア生活の境界、1830-1930』(1986年)というボヘミアン・パリについての社会学的観点からの研究論文を引用しながら次のように書く。

19世紀パリのボヘミアン生活は、従来私たちがイメージしているような、ブルジョワ社会への全くの対立項としてあらわれてくるのではない。それをよく表しているのがミュルジェーヌの「公式のボヘミアン」という概念である。富やブルジョア生活の安楽を拒否しながらも、それを求めていくというパラドックスは、ボヘミアンの生活のアンビヴァランスとしてとらえるべきなのである。そして富や安楽は、勤勉と節約から得られるという中級ブルジョワのモラルはまた、そうした階級出身の若者たちが社会の誘惑、退廃をのがれて独自の生活を営み、芸術に真摯な情熱を傾けるという姿勢につながる。また上流ブルジョワの子弟は、社会の硬直性を批判し、自己啓発、自由の獲得を求める時、両親の価値観を捨て去るのではなく、一時的な放免(モラトリアム)の状態に身をおく — つまりミュルジェーヌの言う「アマチュアのボヘミアン生活」を送る。彼らは自らのアイデンティティを求めるために、マージナルなライフ・スタイルを流用し、そうすることによって社会の矛盾点をあばき出す位置に立とうとする。しかし彼らはいずれそうしたブルジョワ社会に帰ることをはじめから承知しているのである。つまり、「ラ・ボエーム」とは、19世紀パリに明確に成立したブルジョワ社会から生ずる矛盾の表現そのものなのだといえよう。そしてミュルジェーヌの造形した芸術家たちは、ブルジョワ社会において成熟したアイデンティティに到達するための葛藤がいかに深いものであるかを、「放縦」と「理想主義」という二つのパースペクティヴを融合させることで示している。19世紀芸術家たちにとって安易な富の獲得と誠実な貧困、あるいは成功への欲望とそれへのおそれというディレンマは、その生涯自体の最も深い問題であった。〈ボヘミアン生活〉をめぐる文学を、ここでボヘミアン文学と呼ぶことができるなら、19世紀ボヘミアン文学の本質的な問題、それこそが〈芸術家と社会〉というまさしく近代的な問いかけだったのである。

ここで、ミュルジェーヌというのはアンリ・ミュルジェーヌという1822年パリ生まれの画家、作家で自身ボヘミアンだった。代表的小説に『ボヘミアン生活の情景』、『コルセール・サタン』(海賊・魔王)がある、という。1861年、施療院(貧民病院)で死んだ。彼は自分たちの芸術家グループを「水飲み仲間」と称した。すなわち、ビッソン兄弟(写真家)、デブロッス兄弟(兄・ジョセフは彫刻家、弟・レオポルは画家)、アントワーヌ・シャントルイユ(風景画家)、レオポル・タバール(歴史画家)、ウージェーヌ・ヴィラン(風俗画家)、レオン・ノエル(詩人)、アドリアン・ルリウ(詩人)の面々。しかし彼らの作品は日本でも見られるだろうか。また翻訳書でもあるかな…、読んで見たいものである。ボヘミアンとは、外面は「放縦」でも、しかし内面は芸術の「理想」を求道するのである。

 


CD

2018-01-23 | 日記

     

モートン・フェルドマン(1926-1987)はアメリカの作曲家。現代音楽家の中では僕の好きな一人で、僕のあんまり知らない作曲家の中ではフェルドマンの静謐な音が好きなのである (サプリのコマーシャルで言うところの、これは個人の感想でそのコウカを言うものではありません) 。左のCDジャケットの顔写真がその人。フェルドマンの考案になる図形楽譜は、音楽家にして画家でも有名なジョン・ケージ(1912-1992)などにも絶賛されたという。実に図形楽譜は絵画である。絵画が奏でる音楽である。写真は僕のトイレに設置されたCDラックで、日々の朝、僕はジャケットの絵から音楽を聴いている。

 


雪の朝

2018-01-22 | 日記

    

久し振りなブログになってしまった。理由はいろいろあるが、右手のケガが大きな理由である。ま、気分の問題でもあったのだが…。それはそれとしてまた新しい一年が始まって、もう一月も下旬になってしまったのは、余りにも時の流れは急流過ぎるのである。ということで、この写真は今朝の家の前から神社の杜をいつものようなアングルから撮ったもの。

           心凄(こころすご)きもの 

           夜道 船道 旅の空 旅の宿

           木闇(こぐら)き山寺の経の声

           思ふや仲らひの 飽かで退(の) (『梁塵秘抄』より)

 

「思ふや仲らひの 飽かで退(の)く」というのは、互いに好きになった仲の男女が、飽きたからではなく余儀ない事情のために縁を切ること、と解説にあった。「心凄き」とは荒涼たるもの、とでも言うのだろうか。白一色の雪の景色も、ひとつの「心凄きもの」。そして、男と女の別れなど。