『 井月句集 』

2014-12-31 | 日記

       

奇特にして孤高の俳人・井月 ( せいげつ ) 、1822年越後長岡に生れる ( 武家の生まれとも言われるが、今もって不明である、と言う ) 。本名、井上克三とも。18歳ころから北は象潟、西は明石まで漂白と行脚と乞食の旅人となる。生涯を松尾芭蕉に倣い、1887年 ( 明治20年 ) 遂に信州伊那にてその生涯を閉じた、と言う。これは岩波文庫版 『 井月句集 』 ( 復本一郎編 2012年10月第1刷発行、2014年5月第3刷発行 ) である。長岡市内に最近開店なった書店で、昨日買ったばかりである。このところあまり本屋に立ち寄ることが稀だったし、特に岩波の本は文庫本でも置いておく書店が少ないのである。文庫本はあってもその数はあまりない。僕は、熱心に新刊書の発行を調べる方ではないので、この本に出会ったのは嬉しかった。何んと言っても長岡の人の本が岩波文庫に入っているとはね。

最初に井月の本を編集出版したのはやはり伊那の人、下島勲 ( 1869-1947 ) である。彼は東京田端で医者をし、芥川龍之介 ( 1892-1927 ) 一家の主治医であった。1921年 ( 大正10年 ) 刊、 『 井月の句集 』 がその本である。そしてこの本は芥川の献身的バックボーンがあったからこそのものであった、と言う。芥川は跋文に書くのだった。

このせち辛い近世にも、かう云ふ人物があつたと云ふ事は、我々下根の凡夫の心を勇猛ならしむる力がある。編者は井月の句と共に、井月を伝して謬らなかつた。私が最後に感謝したいのは、この一事に存するのである。

後先になってしまったが、ここに井月の句をいくつか紹介しておかなければならない。今は冬真っ最中なので、冬の句を紹介する。

       春を待つ娘心や手鞠唄

       ないそでをなをふる雪の歳暮かな

       掃きよせて時雨の音を聴く落葉

       世の塵を降りかくしけり今朝の雪

       錦木(にしきぎ)や百夜車(ももよぐるま)の雪の道

「 錦木 」 とは、陸奥の習俗で、男が恋する女の家の門に立てた五色に彩色した一尺ほどの木で、女が OK の時は取り入れる。また 「 百夜車 」 とは、深草四位少将が小野小町のもとに百夜通った牛車のこと、謡曲 「 通小町かよいこまち 」 から、と注に言う。

今年もブログを読んで下さって、どうもありがとうございました。来年もどうぞお付き合いを、お願い致します。

       窓の外遠く近くに雪は降る机上のパソコン世界をめぐる

 


閑中忙有り

2014-12-30 | 日記

年越しの買い物を済ませ、親戚への年末の挨拶を済ませたから、もう今日の僕は “ 閑 ” になった。 “ 閑 ” ほど満たされた時はないのである。 “ 閑 ” ほど精励な時はないのである。人生如何にこの “ 閑 ” 時間を生み出すか。わが辞典から如何に “ 忙 ” の字を削除するかが問題なのである。従って、今日も “ 閑 ” なる時間に、永井荷風 ( 1879-1959 ) というかつての文学者の言葉に遭遇できるのである。

おほよその人は詩を賦し絵をかく事をのみ芸術なりとす。われも今まではかく思ひゐたり。わが芸術を愛する心は小説を作り劇を評し声楽を聴くことを以て足れりとなしき。然れども人間の欲情もと極る処なし。我は遂に棲むべき家着るべき衣服食ふべき料理までをも芸術の内に数えずば止まざらんとす。進んで我生涯をも一個の製作品として取扱はん事を欲す。然らざればわが心遂にまことの満足を感ずる事能はざるに至れり。我が生涯を芸術品として見んとする時妻はその最も大切なる製作の一要件なるべし。

人はかかる言草を耳にせば直に栄耀の餅の皮といひ捨つべし。されど芸術を味ひ楽しむ心はもと貧富の別に関せず。深刻の情致は何事によらずかへつて富者の知らざる処なり。わが衣食住とわが生涯を以て活きたる詩活きたる芸術の作品となすに何の費をか要せん。裏路地の侘住居も自ら安ずる処あらばまた全く画興詩情なしといふべからず、金殿玉楼も心なくんば春花秋月なほ瓦礫に均しかるべし ( 以下略 )           ( 岩波文庫版 『 永井荷風随筆集 ( 下 )  』 より )  

 


ペーター・ツムトアを読む

2014-12-29 | 日記

以前に紹介したスイスの建築家・ツムトアの著書 『 建築を考える 』 ( 鈴木仁子訳  みすず書房 2012年刊 ) を再読した。この本は僕が長岡市中央図書館に購入希望図書としてリクエストしたもので、その願いが叶えられた本なのである。なので、僕は何回か借りて読んでいるのである。音楽を愛し、詩を愛し、絵画を愛する建築家の文章は刺激的である。今日はその中の 「 物を見つめる 」 からの一節を紹介しようとおもう。

自身のなかに安らっているような、物や建物をじっと眺めていると、私たちの知覚もふしぎに穏やかに和らいでくる。それらは メ ッセージを押しつけてこない。そこにある、それだけだ。私たちの知覚は鎮まり、先入観は解かれ、無欲になっていく。記号や象徴を越え、開かれ、無になる。なにかを見ているのに、そのものに意識は集中されないかのような状態。そうやって知覚が空っぽになったとき、見る者の心に浮かんでくるのは記憶 ― 時間の深みからやってくる記憶かもしれない。そうしたとき、物を見るとは、世界の全体性を予感することにもなる。理解できないものはなにひとつないのだから。

変哲もない日常の、あたりまえの事物のなかに特別な力が宿る ― エドワード・ホッパーの絵画はそう言っているように思える。それがわかるには、ただひたすらに眼を凝らさねばならない。

 


2回目の雪掘り

2014-12-28 | 日記

                

ごらんのように、今日は珍しく一日晴天だった。青い空、白い雪、澄んだ空気。コッチではめったにない天候である。来客が帰ったあと、午後から今期これで 2 回目の雪掘りである。屋根に上って “ 寒村雪景 ” を見渡していると、気持ちも晴れ晴れして実にこういう風景にはウットリするのである。日々ウットウしい雪ではあるが、こういう日の雪は “ 白い宝石 ” に変容するのである。西脇順三郎の詩に 「 天気 」 というのがある。

   ( 覆された宝石 ) のやうな朝

   何人か戸口にて誰かとさ ゝやく

       それは神の生誕の日。 ( ギリシア的抒情詩 「 天気 」 から全文 )

 


雪中痕跡

2014-12-27 | 日記

 

いずれにしても何の跡だろう。これもキャンバスに描かれた絵画とすれば抽象画か写実画か、その境界は曖昧である。しかし、いずれにしても風景だろうが物質だろうがそのディテールだけ切り取って、さあこれは何だろう、とクイズのような質問だけするのは、何んとつまらないことか! それで、謎が謎のままに提示された方が面白いのである。自然はそう簡単には謎を明かしもしなければ、解決もさせない。僕らはその謎について想像するだけなのである。従ってこのシーンは一枚の抽象画と言ってもいいのである。抽象画はあらゆる物の見方を受け入れてくれるのだ。天気のいい日の雪景はなんと気持ちいい!

       晴れた日は海に向かって遠出する白き青空あはれブっ飛ばす