昨年の6月1日から10日にかけて、 『 没後30年・私的西脇順三郎展 』 を開催した。あれからもう、一年が経つ。光陰はあまりにも早い! 『 枕草子 』 の 「 ただ過ぎに過ぐるもの、人の齢、春夏秋冬 」 である。昭和8年 ( 1933年 ) 9月20日、このワインレッド色の詩集 “ ambarvalia ” が出版されて今年で80年になったが、ポエジーはいよいよ冴えている! 来年は詩人の生誕120年を迎える。
間断なく祝福せよ楓の樹にのぼらんとする水牛を!
昨年の6月1日から10日にかけて、 『 没後30年・私的西脇順三郎展 』 を開催した。あれからもう、一年が経つ。光陰はあまりにも早い! 『 枕草子 』 の 「 ただ過ぎに過ぐるもの、人の齢、春夏秋冬 」 である。昭和8年 ( 1933年 ) 9月20日、このワインレッド色の詩集 “ ambarvalia ” が出版されて今年で80年になったが、ポエジーはいよいよ冴えている! 来年は詩人の生誕120年を迎える。
間断なく祝福せよ楓の樹にのぼらんとする水牛を!
16世紀に生きた美しき女性アンテア嬢。 彼女は、この肖像画を描いたパルミジャニーノ ( イタリアの画家 1503-1540 ) の愛人だと言われている。左はジョセフ・コーネル ( 1903-1972 ) のボックス作品 “ La Bella [ Parmigianino ] ” 。 コーネルは箱の中に白い絵の具を厚く塗って、あたかも時を経て剥げ落ちたかのように、塗った。そしてこの箱の中に密やかな追憶を封じ込め、高貴なる女性性を生きとし生きるままに投じたのである。時が経てば経つほどに絵の具は剥落しても、追憶はより一層、星の輝きになる。コーネルの独創はボックス・アートという、手法の発見ではなかった。彼は、自らのボックスの中に microcosm という永遠の沈黙を発見したのである。美は黙して語らず、という。
microcosm の中でさえも星辰は運行する、と言う。誰でもそこに住もうと、さえすれば!
2012年夏、彼女は一つのファントムを残して去った。北西の空から来てまた南東の地平線に消えたのである。これはその年のまだ雪の残る頃の、思い出に描いたものである。彼女は近代生活に別れを告げようとして悩んでいたのだった。都会でもカントリーでもあまりに近代がはびこっていて、かつて大都会でも聞こえたというモンドリアンの “ ニューヨーク・ヴギウギ ” は僕の田舎でも、今ではもう、聞こえないのだった。彼女が緑の色彩をまとうのは、始まりの水の流れに再び出逢うための、彼女の切なる祈祷であった。
掌が星型をしているのは
光をとらえるため
瞳の扉をひらき
夢の廊下を手さぐりに
もうひとつのまばゆい光に遇うため ( 瀧口修造著 『 余白に書く 2 』 より 「 失題 」 )
夏の夜、雲に隠れたアンドロメダを再び呼び戻すために僕は、さびしいバンシャクタイムにショパンのピアノ幻想曲を聴いた。一時は悲しみの慰めになった。スカスカの近代生活の毒にドクされた過去に別れを告げるため、彼女はやはり一人のアリスなのだった。現代はあまりにも人が晒されて、謎がなさすぎる。人は謎の中で生まれ、謎をかかえたまま生きて行く。アリス・アリアス・アリビ嬢よ、あまりに現代は囀りすぎるから、おまへは賢明であった。瞬間を掠め行く鳥影の影に彼女の憂いが光っていても、不思議ではない。影の中に、もうひとつの光があっても不思議ではない。 「 もうひとつのまばゆい光 」 が影の中にある。瞳の影、夢の影、命の影、男の影、女の影、魂の影。始まりの影。終わりの影。彼女の影は緑の影であり謎の影である。今夏、鳥影と共に彼女は帰還するだろうか。
信越本線・新津駅前のメインストリー ト。ここは 「 鉄道の町 」 であると言う。ちょうど今、アーケードの撤去工事中だったので、こっちの町並の方がいいと思う。建物の外観が顕わになっていて個性的。経年の汚れも古びれも、暮らす人たちの匂いがある。統一感のないファッサードのゴチャゴチャが、かえって町に精彩があるような気がするのは、僕が “ エトランジェ ” だからだろうか。
いみじくも club Prism の看板が象徴的で、町の暮らしを乱反射しているような看板である。正面外壁に取り付けられた二つのエアコンの並びがユーモラスである。何も正面に付けなくとも、と思うが、アーケードで見えないし、見えなくなるからだ。一戸の同じ建物がそのアーケードの上下で住居と商業に分割される。それが一時外される事で、意外な、まあ言って見ればフレッシュな相貌を見せてくれたのである。建物自身も驚いていると思うが、どうでしょう。アーケード撤去中の今が、このストリートの旬である。時間のある方、興味ある方はぜひ訪ねてみて下さい。工事中、いいね!
そういえば僕は、建築家・野田さんの個展が新津市内の個人住宅を改装したギャラリーで開催されているのを、電車に揺られて小一時間、新津まで見に行ったのだった。 “ 三方舎・書斎ギャラリー ” は、こじんまりした趣きのある、中庭にテラスを上品に張り出した心地いいそよ風の書斎であった。トルコのタイルやギャッベと呼ばれるイランのカーペットが、エキゾチックにも和室に和しているのだった。野田さんの水彩スケッチはご存知のように建物がテーマであるが、今回は新津の街中にある住居やショップをモチーフにしていて、どれも佳品であった。パースペクティヴが、やはり建築家だからだろうか、うまいのである。オープンテラスにも作品が飾られて、絵の中の建物もまた、風にそよいでいるのだった。 紹介されて “ 十三夜 ” なるカフェにも行った。名前からして美味しそうであった。
TVを見た。歌謡番組はNHK以外の番組ではあまり知らないから、これはNHKの番組ではない。いい歌詞だな、と思う。
ああこの世に生まれ巡り逢う奇跡
すべての偶然があなたへとつづく
そう生きてる限りときめきをなげかけて
愛が愛のままで終わるように … ( 作曲・作詞 花岡優平 )
人は何かとめぐり合うために生まれてきた。もしめぐり合わなかったら、人は死ぬまで薄明の中をさ迷う一匹の犬に過ぎない。僕らの運命は、言ってみれば奇跡とか偶然性とかに支えられているのである。 「 すべての偶然があなたへとつづく 」 とは至言である。 「 あなた 」 とは 「 巡り逢 」 いのことである。人生の歩みの全ては、このめぐり合いのためにあるのであった。そして 「 ときめき 」 とは、鈍感の対極にあるものであろう。また僕らの運命は、運命の必然性をも隠し持っている。その隠されたものこそ 「 愛 」 という宝石なのではないだろうか。宝石は研磨してこそ宝石である。幸福とは、僕らの運命に隠し持つ宝石という原石を、生涯、研磨し続けること、と言ってもいいかも知れない。愛が愛のままであるように、愛が愛のままで終わるように磨き続けるのである。 秋元順子、いいね!