「 舞待夢 」 から見た月 薄雲のかかる石地海岸の月
昨夜は綺麗な十三夜で、二日続きの 「 舞待夢 」 であった。静かに見る月はまた一入 ( ひとしお ) で、閑寂な清夜であった。帰り、少し遠回りして石地海岸まで出て海の月を見るに、薄い雲がかかり月の周りに大きなリングができているのが印象的だった。明かりが二つ、暗い海に浮んでいた。
夜の海景 ( 海なのか分らないけど、これは夜の海 )
以上は昨日のことで、今日は曇り・雨の一日で、一日がゆっくり過ぎて行った。炬燵を出し、絵を架け替え、掃除をし、食糧を買いに行き、ランチは地元の畳敷きのラーメン屋に行き、ラーメンを喰った後、横になってしばらく 『 荷風随筆集 ( 下 ) 』 ( 岩波文庫版 ) を読む。帰宅してからも続きを読む。その中に 「 浮世絵の鑑賞 」 という一文がある。
「 秋の雨しとしとと降りそそぎて、虫の音 ( ね ) 次第に消え行く郊外の侘住居 ( わびずまい ) に、倦みつかれたる昼下り、尋ね来 ( きた ) る友もなきまま、独り窃 ( ひそか ) に浮世絵取出して眺むれば、ああ、春章写楽豊国は江戸盛時の演劇を眼前に髣髴 ( ほうふつ ) たらしめ、歌麿栄之は不夜城の歓楽に人を誘 ( いざな ) ひ、北斎広重は閑雅なる市中の風景に遊ばしむ。余はこれに依つて自ら慰むる処なしとせざるなり。」 と、書く。
また日本の風土と浮世絵が如何に切り離せないものかを、切々と次のように述べるのである。 「 歌麿と北斎とは今日の油絵よりも遥によく余の感覚に向つて日本の婦女と日本風景の含有する秘密を語るが故に、余はその以上の新しき天才の制作に接するまで、容易に江戸の美術家を忘るること能はずといふのみ。日本都市の外観と社会の風俗人情は遠からずして全く変ずべし。痛ましくも米国化すべし。浅間 ( あさま ) しくも独逸化すべし。然れども日本の気候と天象と草木とは黒潮の流れにひたされる火山質の島嶼 ( とうしょ ) の存するかぎり、永遠に初夏晩秋の夕陽 ( せきよう ) は猩々緋 ( しょうじょうひ ) の如く赤かるべし。永遠に中秋月夜の山水は藍の如く青かるべし。椿と紅梅の花に降る春の雪はまた永遠に友禅模様の染色 ( そめいろ ) の如く絢爛たるべし。婦女の頭髪は焼鏝 ( やきごて ) をもて殊更に縮さざる限り、永遠に水櫛 ( みずくし ) の鬢 ( びん ) の美しさを誇るに適すべし。然らば浮世絵は永遠に日本なる太平洋上の島嶼に生るるものの感情に対して必ず親密なる私語 ( ささやき ) を伝ふる処あるべきなり。浮世絵の生命は実に日本の風土と共に永劫なるべし。 … 」 と。大正2年 ( 1913 ) に書かれたエッセーである。荷風34歳。