before MARK ROTHKO

2012-06-30 | 日記

        

2012年6月24日午後7時ころの夕陽。いつからか水平線を見るたびに思うのは、抽象表現主義の画家・ロスコ ( 1903-1970 ) のタブローである。垂直ではないこの水平線が、非常な限りない広がりをイメージさせてくれるのである。ロスコの色面も水平に色が分割されている。垂直の分割ではないのであった。いわゆるロスコ色面が完成される以前の1940年代の作品のイメージは、夕景の空の色だ、と僕は勝手に思っている。

「 限りあるものと限りないもの、私はその両方を描きたい 」 と言ったロスコは、自分の作品が 「 人々の心の奥底に潜む感情と強く通じ合うこと 」 を望んでいたのだったが、しかし、自ら死を選んだ。 「 限りあるもの 」 とは人の命のことであろう、 「 限りないもの 」 とはこの上ないものであり、この美しい惑星の HORIZON のことであるかも知れない。限りある命の中に限りない美が潜み、限りない美の中にはいつか終わるであろう命が生きている。下記はロスコの作品で、共にタイトルは “ UNTITLED ” ( 1949年 )

              


『 欅中居 』 のあじさい

2012-06-29 | 日記

              

長岡市東蔵王の金峰神社境内西側にある 『 欅中居 』 の庭にて撮影。大輪の紫陽花は早くもムラサキの色を失って、もう朽ちかけていた。雨の降る季節に、雨のない日がもう幾日も続いている。

     あぢさゐやきのふの手紙はや古ぶ ( 橋本多佳子 )

この 『 欅中居 』 ( きょちゅうきょ ) なる館、以前は民家だったのを、ここの主である織物作家・鈴木さんがいろいろな展示物の展示会場にと公開したもの。松岡譲自筆の “ 欅中居 ” の揮毫がある。展示会がある時のみ公開する。今回は古物展示会のために 7月1日 ( 日 ) まで公開している。

話は違うが、鈴木さんを送る車中での話で、35年前に25歳で逝ったシンガーソングライター・富所正一は高校時代、彼女のご主人 ( 故人 ) の教え子だったそうである ! 知られざる富所の発見があるかも知れない。

 


夕暮れの時はよい時

2012-06-28 | 日記

暑い日が続いているけど、夕暮れ、川辺を歩いていると少し冷たいそよ風が吹いて、一日の心身をいたわってくれる。ここには、堀口大學の詩 「 夕暮れの時はよい時 」 がある。

   

        夕暮れの時はよい時 。

        かぎりなくやさしいひと時 。

   

        それは季節にかかはらぬ 、

        冬ならば暖炉のかたわら 、

        夏ならば大樹の木かげ 、

        それはいつも神秘に満ち 、

        それはいつも人の心を誘ふ 、

        …

夏の日に大樹の木陰で、こういう詩集を読むのもいい。詩を愛する少女に読み聞かせるのもいいし、愛する人がかたわらにいてくれて、夕景が神秘に満ちてくるまで無言でいてもいい。

 


夜の散歩と 「 好色の事 」

2012-06-27 | 日記

               

刈谷田川上流の山奥の夜景は、外灯が一つ灯る。この奥に行くとホテルが一軒ひっそりとしている。もう一軒、山菜と川魚が売りの食堂がある。半月には薄い雲がかかり、川辺の風が心地いい。山間の夜色、誰も顧みることなけれど、これを甚だ佳しとする。

深更、 『 紫文要領 』 を読む。 『 源氏物語 』 は 「 物の哀れをしるといふ心ばへは聞こえたり。其の中に好色の事のみおほきはいかに 」 、と人に問われて宣長は次のように回答する。

 「 人の情の深くかヽる事好色にまさるはなし。されば其の筋につきては、人の心ふかく感じて、物のあはれをしる事何よりもまされり。故に神代より今にいたる迄、よみ出る歌に恋の歌のみ多く、又すぐれたるも恋の歌におほし。是れ物の哀れいたりて深きゆゑ也。物語は物のあはれを書きあつめて、見る人に物のあはれをしらするものなるに、此の好色のすぢならでは、人情のふかくこまやかなる事、物のあはれのしのびがたくねんごろなる所のくはしき意味は書きいだしがたし。故に恋する人のさまざま思ふ心のとりどりにあはれなるおもむきを、いともこまやかに書きしるして、よむ人に物の哀れをしらせたる也。 」

これを書いていた時期、宣長は女性を愛していたんだろうか。たたみかけるような説得力ある文を思うと、こういう 「 物の哀れ 」 を着想する感受性は人を切なく愛していないと、または静かに思いつめて愛したことがないと書けないような気もするのである。

物語作者とそれを読む愛読者の 「 あはれ 」 が時空を越えて交感する、それが読書の喜びである。

 


快晴

2012-06-26 | 日記

           

「 ぼくは存在する必要がなかった。かくも充実し、かくも張りつめたこの空間の中には、ぼくのための場所はなかった。すべてが充満していた。何ものもつけ加えることなどできなかったろう。そして驚異的に精確な錯綜の中、全体の階和すべての中、ぼくがそこに存在しない一方でそこにあったこの物質すべての中では、すべてが充足している。 」 [ ル・クレジオ著 豊崎光一訳 『 物質的恍惚 』 ( 2010年岩波書店刊 ) より ]

快晴の空を見上げれば、僕がいてもいなくてもしようがない程に何もないのであった。何もないというのを真に受けてはいけない、追加するものが何もないのである。この何もない空間の充足感は一体どこから来るのだろう。何もないというのは、全てが充満しているからだ。

刈り込まれた一本の杉の木はまぎれもなく僕である。存在する必要のない僕が無駄な抵抗を試みているような、何ものかに対峙しようとする一本の木であった。ここに 「 存在する 」 の始まりがあるかも知れない。