“ 女性の勝利 ”

2017-07-30 | 日記

     

         “ LE TRIOMPHE DE LA FEMME ”

 ハンガリー人の写真家、アンドレ・ケルテス (1895-1985) が関わったパリの写真雑誌 “ ヴュ ” (編集長はリュシアン・ヴォージェル) に、1930年3月掲載されたミス・フランスのポートレートのタイトルが “女性の勝利” だった。これも先日に紹介した今橋映子著『パリ・貧困と街路の詩学』から「 フォト・ジャーナリズムの光芒 ー アンドレ・ケルテス 」という論文にあったことだ。とは言うものの、この絵はそれと全く関係なく、絵を描きながらまた途中で止めながら、止めている間の読書がこの本であった。ケルテスというやはりパリの街路を愛した一人のエグザイルが撮り続けた写真とその生き方に、僕は一個の独創を思うのである。パリの喧騒と陶酔とセーヌの静かさ、 “浮浪者” や、ブルジョアでもなく労働者でもない自由人たちを、遊歩者 (フラヌール) でもあったケルテスは撮った。

なぜ “女性の勝利” なのか分からないが、しかしこれもパリの新しいジャーナル (日記) の一つなのであった。従って、この絵も僕の日記であり読書の備忘録である。

 


「神は細部にやどる」

2017-07-29 | 日記

      

今、東京の美術館でジャコメッティ展が開催されているという。僕も見に行きたいと思うが、事情で家を明けるわけにはいかないのだ。そこでジャコメッティ関係の蔵書のひとつで、昨年亡くなったイヴ・ボヌフォア(1923-2016)というフランスの詩人が書いた大部のジャコメッティ作品集を開くのである。この本は1993年に清水茂の訳で㈱リブロポート社から刊行されている。また、ジャコメッティ自身の言葉を集めた本に『ジャコメッティ・エクリ』(矢内原伊作・宇佐美英治・吉田加南子訳 1994年みすず書房刊)という本があるが、その中の対談での言葉をここに書いておく。

… 近代の芸術家の仕事の仕方はすべて絶えず逃げ去る何ものかを掴み、手に入れようとするこの意志のうちにある。彼らはレアリテそのものよりも、レアリテについて彼らがもつ感覚 (サンサシオン) を手中にしたいと思っている。… いずれにしてもすべてを手に入れることはできない … 手に入れうるものは外観だけだ。レアリテに残されているのは外観だけなのだ。或る人物が2メートル、或いは10メートル離れていると、私はもうその人物を実証的なレアリテの真実に帰属させることができない。私がカフェのテラスにいて向う側の歩道を歩む人々を見ると、その人々は、微小なものに見える。彼らの自然の身丈などはもはや存在しない。(略) 仕事をしていようといまいと、私は外観でしかものを見ない。何も違いがあるわけでない。家からカフェへ行くときに私が見る風景、見る木が毎日少し違い、それが私にとって新しいというように。戦争前には私は物には安定性があるという感じをもっていた。いまではもはやそんな感じが全くない。世界は日毎ますます私を驚かせる。世界は一層広大で、すばらしく、一層把握しがたく一層美しくなった。細部が、たとえば顔の中の目や木の上の苔のような微小な細部が私の関心をかき立てる。もちろん全体も。なぜなら細部と全体との間にどうして区別を立てえよう? 全体を作っているのは … 或る形の美を作っているのは細部に他ならないのだから。… (1962年6月、美術評論家アンドレ・パリノとの対話より)

 


雨上がりの朝

2017-07-17 | 日記

朝方には雨が降っていたが、起きてみるともう雨も上がっていて、少し蒸し暑い一日の始まりである。稲も大きくなってきた。掃除をしていても、もう、汗がタラタラと床に落ちてくるくらいに、朝から暑かった!それで、一日何をしていたんだろう? 本を読むこともなく、音楽を聴くこともなく、ましてや絵を描くことなんて … 、ひとひボーゼンと過ごすばかりなりけり。

 


カーテン越しの今朝の光

2017-07-11 | 日記

  

今日もまた暑い一日が始まりそうな気配である。家の温度計で8時現在、もう27度になっている。昨夜は寝苦しい一夜だった。ずっと夢を見ていたような気もするし、でも、ずっと眠っていたような気もするし、ヘンな夜だった。吉田一穂 (1898-1973) の詩に、

胸に遥かな鼓動を谺(かへ)して、現(うつつ)となく展ける海景(けしき)

水脈(みお)に揺蕩(たゆた)ふ臨終の、人は水底(みなぞこ)の薄明に諦めて静謐(しづけ)き御身 …

というのがあるが、昨夜は実に「水脈にたゆたふ臨終」であり、「水底の薄明」の中で、だった。そして僕の胸は「遥かな鼓動」の谺(こだま)ではなくて、単に動悸がするばかりなのであった。年も年なので … 。ああ、嗚呼、嗟々 … 、なんていう言葉が古い日本語の翻訳詩に出てくるが、実にこれである。詩は

空翺(ゆ)く鳥の唄は哀しい。

と続いている。「翺」は、鳥が翼を上下して空をかけるという意味。ちなみに「翔」は翼を張って動かざるをいう、とあった。大正六年刊の上田万年他著『大字典』に出ていたことである。

 


ウェッジウッド社の皿とベンヤミン

2017-07-10 | 日記

   

忘れていて棚の奥に入れ込んだままの皿だった。今では廃盤になった “ メジチ ” シリーズの皿である。どうも僕の家には合いそうもないので、奥に入れっぱなしになっていたようである。いつかこういうテーブルウェアーを使いこなせるような家に住んで見たいものである。ま、それはそれとしてスポット的に使って見るのも一興である。明日には家のどこかに置いて見ようか … 。

今夜もどうも暑くて眠れそうにないから、内容的にも、文字通り重量的にもちょっと重たい本でも読もうか、と思う。この数日は今橋映子著『  パリ・貧困と街路の詩学 1930年代外国人芸術家たち 』(1998年 都市出版 ) という、ナチズムの台頭と大恐慌時代の無国籍都市パリに亡命、または自国脱出者たちのパリでの生活とその芸術活動について書かれた本である。特にドイツ人にしてユダヤ人のヴァルター・ベンヤミン (1892-1940) のパリでの記述に心引かれるものがあった。それに『夜のパリ』の写真家・ブラッサイ (1899ー1984) である。そして僕はここに、この著作から長い引用をしなければならない。

ボードレールの時代ではなく、1930年代の外国人芸術家たちが、貧困の中でパリを放浪し、街の中でこそ自分の表現形式をつかみとっていった理由は、実はベンヤミンのこの「無為」のうちに読み取れるのではないだろうか。大不況であり(亡命)外国人であるという二重の条件下で「労働過程一般とのいかなる関係をも」絶たれた外国人芸術家たちは、すでにもう「無為」の中にある。そして亡命であれ、放浪であれ、社会から疎外された者たちは、その代わり異国の街に対して遊歩者 (フラヌール) の視線をもちうる ― それは何よりも彼らが「孤独」な存在であったということから説明されるだろう。

「無為という条件の下では孤独は重要な意味をもつ。どんなに些細もしくは貧困な事件であっても、そこから潜在的に体験を解き放ちうるのは、孤独だからである。孤独は、感情移入を通じて、どんな偶然の通行人をも、事件の背景に役立てる。感情移入は孤独な人間のみ可能である。それゆえ孤独は真の無為の条件なのである。」( ベンヤミンの著作から )

こうした孤独な遊歩者が、都市風景の中に降り立つことによって、疲労困憊するほど歩き回りながらも、ついに陶酔の感覚にまで至ることができるのはなぜだろうか ― それは次に「室内としての街路」という、ベンヤミンならではの光り輝くような定義によって明らかにされる。

「街路は集団の住居である。集団は永遠に不安定で、永遠に揺れ動く存在であり、集団は家々の壁の間で、自宅の四方の壁に守られている個々人と同じほど多くのことを体験し、見聞し、認識し、考え出す。こうした集団にとっては、ぴかぴか輝く琺瑯引きの会社の看板が、ちょうどサロンでの市民にとっての油絵のように、いやそれ以上に壁飾りなのであり、「貼紙禁止」となっている壁が集団の書き物台であり、新聞スタンドが集団にとっての図書館であり、郵便ポストが青銅の像であり、ベンチがその寝室の家具であり、カフェのテラスが家事を監督する出窓なのである。路上の労働者が上着をかけている格子垣があると、そこは玄関の間であり、いくつも続く中庭から屋上へ逃れ出る出入り口であり、市民たちにはびっくりするほど長い廊下も労働者たちには町中の部屋への入り口である。労働者たちから見れば、パサージュはサロンである。ほかのどんな場所にもまして、街路はパサージュにおいて、大衆にとって家具の整った住み馴れた室内であることが明らかになる。」( ベンヤミンの著作から )

まさに、「パリは風景となってかれに開かれ、部屋となってかれを閉じ込める」。ナチズムや、ヴィシー政権という、現実の政治にコミットすることなく、意思をもって「アト」をくらましてしまった亡命思想家ベンヤミンは、しかしこうした「遊歩」と「街路」の詩学を1930年代のパリで生み出した。今日から見て私たちが驚くことは、『パサージュ論』が、単に19世紀パリを読み直す鍵を提示しているのみならず、それは〈パリ〉という集団的想像力の場 (トポス) を解明する無尽蔵の資料と、認識論とを包含しているということである。そしてここで今一度注目したいのは、この『 パサージュ論 』が多くの亡命者にとっては、不寛容で不毛の地でしかなかった「1930年代のパリ」でこそ、生み出された ― という事実なのである。