夕日の思想

2013-06-09 | 日記

       

画廊からの帰り道、国道8号線から見える夕焼けの空。午後7時ころの撮影。夕日の前景は全てシルエットになる、という物理的現象と心の奥深いところの心象とは切っても切れない関係がある。ということは言えると思うので、夕日というのは一日の終わりで、ジャン=フランソワ・ミレーの祈りの時間であることが直截に感じられるのである。逆に言えば、名画が名画である所以は、名画を鑑賞するにはちょうどいい時間帯というものがある、ということでもある。ヤミクモに見てはいけない。ジャン=フランソワは夕暮れの画家である。面白いもので、こういう自然現象に包まれることで、遠い泰西名画をより身近に感ずるのである。

世界が赤く現象すると、それは一日の終わりである。外界に薄闇が降りて、心象世界の幕が上がるのである。齋藤茂吉の第一歌集は1913年に発行された 『 赤光 』 ( しゃっこう ) であった。赤光とは、夕日の光のことである。 「 しゃっこう 」 という音がいい。しゃか、という音に近いと思う。音の響きだけでも文学の世界が開示されて行く。単なる夕日の赤い光を 「 赤光 」 と命名し、音することで新世界が開かれて行くのである。茂吉は夕暮れの歌人であった。心の世界が赤く現象し、いつか夜の空に億光年の光源が明滅する。その 『 赤光 』 ( 岩波文庫版 2001年第二刷 ) から二首引用。

   なやましき真夏なれども天 ( あめ ) なれば夜空は悲しうつくしく見ゆ 

      赤光 ( しゃっこう ) のなかの歩みはひそか夜の細きかほそきこころにか似む