マイ・スキップ 2015 8月号

2015-07-31 | 日記

     

明日から、我が  “ コレクション展 ” が開催される。とても楽しみにしているのでありますが、さてどうなりますか。写真は明日発行の長岡市内の文化情報紙 “ マイスキップ ” 最新号の8月号である。ちょっと読みにくいので下記に原稿を掲載します。

 

最初に瀧口修造の詩を書く。

   恋、

  それははじめ氷塊のごとく

  それからバラ色になり

  燃える真紅になり

  ついに完全な黒となり

  永遠に結晶する

  ひとつの出会い。( 瀧口修造著 『 余白に書く 』 より )

 若い日から僕は絵画に興味を持ってきた。そしていつかからサラリーを生活に対してよりも、「芸術」に注いできた。僕にとっての「恋」は絵画という「芸術」だった。そして絵画はお金で買うことができたのだった。だんだんと絵が集まるようになって、また絵と共にその資料としての書籍も増えてきて、ついに週末だけ営業のギャラリーを開いた。サラリーマン生活との、いわゆる二足のワラジを履くようになった。「芸術」は僕の生きる支えになった。単に紙やキャンバスに描かれた非実用の絵が僕の慰めと勇気になったのである。不思議なことにこの非実用の紙やキャンバスが、何よりも僕のエスポワールとして僕の深くに張り付いているのである。現実に躓いても、日々の生活に疲弊することがあってもこの非実用の「芸術」が僕にヘコタレナイ人生をもたらしてくれるのである。「芸術」は「永遠に結晶する / ひとつの出会い」なのであった。「芸術」との出会いは、以後、僕の人生に異次元の豊饒をもたらした。この展覧会は、そういう「恋」多き一小市民のドキュメントである。皆様から、すれ違いざまに一瞬振り返ってもらえれば、僕は嬉しい。  ( gallery artbookchair 主宰・酒井実通男 )

       

 


栃尾の夜

2015-07-28 | 日記

     

夜9時半頃、栃尾の中心街は車も人もまばらである。いや、殆んど車も人も通らない。ここでは一対の男女が偶然にも、目の前を通過して行ったのは余りにもコレ見ヨガシだった。 「 卓球用品専門 」 の赤い看板はやはり誰もいない黒い路面を照らす時、この季節、皓々と夜の町は暑いのだった。この時間、この町にオイシソーナ、スズシソーナ珈琲店があったらな … 。

             そして巴里の群集のうごめく街を横切って、

           弱々しげな幽霊が通って行くのを ちらりと見る時、

           俺はいつでも 脆弱なこの生きものが 新しい揺籃に

           辿りつかうと 静かに歩いて行くのだと 思ってみたり、

      ( ボオドレール著・鈴木信太郎訳 『 悪の華 』 から詩篇 「 小さい老婆たち 」 の一部 )

 


物体二様と『福永武彦全小説 第九巻』

2015-07-26 | 日記

       

       

暑い日が続く。このオブジェの背景に写る田んぼの稲は青々と風に揺れて涼しげで、でも、僕には机の前に座っているだけで汗が垂れる。目覚ましにアイスコーヒーを淹れて、先日の火祭りでもらった団扇で汗を凌ぐのである。まだクーラーはかけないでいる。午後3時半、イヤー暑いナー。気まぐれに風も入ってきて、これは気持ちイイのだ。遠く稲の揺らぎは詩的であり、近く僕の部屋に一時流れる風は散文である。そして散文は現実の象徴であり、詩は願望の象徴である。

写真の、新潮社版 『 福永武彦全小説 第九巻 』(愛蔵版)上の小さな物体は夜と昼の二様である。この第九巻には作家の王朝物の代表作 「 風のかたみ 」 が収録されていて、時代性を超えて男と女の愛の物語は僕らに届くのである。“ 恋のみだれ ” は心の揺れであり、稲の揺れである。小説の最後はこんな歌で閉じられる。

       跡もなき波行くふねにあらねども 風ぞむかしのかたみなりける

 


火祭り

2015-07-25 | 日記

      

     

昨夜は栃尾・秋葉神社境内で “ 火祭り ” の行事があった。この時季、栃尾の最大な行事である。二年振りに見に行ったのか、そうでなかったか、昨年は確かに見に行かなかった。しかし、今年は遠方から来ていた高校時代の同級生を案内したのである。秋葉神社は互いの思い出の一つの場所だった。今は車でいとも簡単に境内に出入りできるが、高校生当時は長い石段を登ってようやく辿り着くのだったが、もはや今となっては長い長い石段を登って来ようとは、もうそんな不遜な考えは捨て去ってしまった、という程に茶色に変色してしまった思い出の場所である。

下の写真は、一番燃え盛っている時のもので、どうも火炎の中から “ 不死鳥 ” のような姿が立ち上がって見えているようだ。こういう「幻影」を見るのは一つの幸いと思う。人が神事に願うものは、やはり超自然の現象である。願いとは、現実を超え存在を超えたものを祈念することではないだろうか。 “ 不死鳥 ” とは実にポエジーである。そしてポエジーとは、僕にとって大きな救済なのである。

 


小さな靴

2015-07-23 | 日記

        

先日、八海山麓で開催していたアジア雑貨マーケットに立ち寄って、こんな小さな靴を見つけた。この靴は小さな誰かによって履かれるだろう、という予想を裏切って、今、僕の部屋のブックシェルフの一隅を小さく占めているのである。靴の機能を満たしてやることはできかねるが、でも僕にはこの靴が持つ雰囲気というものに、一種面白い興味が湧いてくるのだった。小さな靴でも一歩は一歩で、僕の部屋には小さな靴がある。汚れていない小さな靴がある。