収穫祭

2011-09-30 | 日記

                       

もう、9月も今日が終わりになって、終わりの今日の日は雨が降った。で、隣の田圃もご覧の通り。収穫の後の “ 祭り ” である。稲の刈られた後はこの地方では、もう冬が来るのを待つだけである。用水路の流れも透明になって “ 秋水 ” になった。こんな小さな水路でも秋が速やかに流れて行く。芭蕉 ( 1644-1694 ) の句にこんなのがある。

     ( 人に米をもらふて )  よの中は 稲かる頃か 草の庵

また、18世紀の京都では、与謝蕪村 ( 1716-1784 ) がこんな句を作っている。     

     稲かれば 小草に秋の 日のあたる

都会の郊外を散策する蕪村の、アンニュイな雰囲気がいい。蕪村はボードレールに先駆けて都会の洗練と憂愁を歌った近代詩人ではないだろうか、と言ったのは比較文学の芳賀徹先生だった。芭蕉は江戸深川にその庵を結んでいたが、ここに掲載した句に限って蕪村のものと比べて見ると、江戸はまだまだ京都のような繊細な都会ではなかった。もっとも時代に70年の開きがあるけれども。そう見ると、この掲載写真は江戸時代の深川周辺の田圃のように見えなくもない?なんて、飛躍的想像でした。

                        

ところで 「 収穫祭 」 といえば、かの西脇順三郎の初期の詩集に “ ambarvalia ” ( 1933年刊 ) というのがありますが、これはラテン語で、 “ 穀物祭 ” と言うそうです。春にその年の豊穣を祈るお祭りだそうです。詩集中の 「 ヴィーナス祭の前晩 」 の一節です。

「 明日は未だ愛さなかった人達をしても愛を知らしめよ、愛したものも明日は愛せよ。新しい春、歌の春、春は再生の世界。春は恋人が結び、小鳥も結ぶ。森は結婚の雨に髪を解く。明日は恋なきものに恋あれ、明日は恋あるものにも恋あれ。 」 

すでに雨の上がった今夜の、吾が 「 巣守神社 」 の夜の杉木立の影に、ディオーネの女神が厳粛に横笛を吹いている、ような錯覚は安眠の妨害にはならないのである。明日は早く起きて清浄な空気の中、神社の濡れている森を彷徨って見ようか。ひょっとしてディオーネの亡き骸に出会うかも知れない。春が再生なら、この秋は静かに女神の霊を奉り、人びとに食われる 「 新米 」 の霊も祀ろう。    

  


印象

2011-09-29 | 日記

昨日は遅くなってしまい、小林久子氏の作品を掲載できなかったので、作品集 『 SEEDS IN THE HEART 』 ( Selected Works from 2004-2007. 2007年作製 ) より二点紹介します。いずれも油彩・キャンバス作品です。

     「 AYAKA 」 152.4×76.2cm      「 KAN NA ZUKI 」 66.0×61.0cm

「 AYAKA 」 は画家の娘さんの名前、 「 KAN NA ZUKI 」 は神無月のことであろう。二点とも日本語がついた作品である。ニューヨーク在住30年の画家のタブローです。他にどんなタイトルの作品があるかと言うと、以下タイトルだけを列挙して見ます。

primordial sound, compass to unknown, internalized note, seeds in the heart, agape, diver in search, celebration, new hope, embattled garden, be together in harmony, neither yes or no, ancient world, visit to a wise person, solitude, reincarnation, secret knowledge through the ages, all in one's lifetime, narrow gate, etc.

これらは実際に僕らの目に見えないものである。恐らく画家にも見えないだろう。しかし画家の悲しき性は何とかして見て見たいのだ。だから画家は日々キャンバスに向かっているのだろう。こういう言葉から浮かび上がってくる世界は、まぎれもなく画家の内面世界にあるのである。ご本人も、なぜこんなにも無形なものと付き合ってきたんだろう、と驚いていることだろう。

絵画とは心の覚書に過ぎない。描き続けることで、耳を澄ませば 「 世界の始まりの原音 」 が聴こえて来るかも知れない。描き続けることで、孤独と対話し、人生のあらゆる狭き艱難の門を通過しなければならないのだった。ここからしか希望が始まらないのだ。希望とは、一人の賢人に会うため!賢人とは誰か。賢人とは世界に偏在する 「 アガペ 」 である。だから画家は無形の絵画を描き続ける。ここでは無形なものほど求心的なものはないのであった。

オールオーバーの画面に、一条の光は、ためらいながら屈折しながら、果樹園や羅針盤や孤独な人々の湖水に差している。僕らは一人の湖水を潜る潜水夫でありさえすればいいのだ。光はいつか狭き門を通過して “ new hope ” を照らすだろう。画家とは一人の “ diver ” であるのだった。

展示作品は、クロード・モネの睡蓮の池のマチエールの印象の、光の陰影の包むような切なさが心に沁みてきて、その作品のタイトルもまた作品と共に、会場を heartfelt な秋の睡蓮の池にしていたのである。

 

 


to Niigata City

2011-09-28 | 日記

                              

今夕は小林久子氏を囲んでの RECEPTION がありました。彼女は New York City に30年にも及び在住され、新潟絵屋での個展 「 小林久子展 」 のために来日されています。帰り、カタログ 『 SEEDS IN THE HEART 』 をいただきました。心遣い感謝します。帰宅がPM10:59着になってしまったので、もう眠いしブログは明日にしよう。        

関係ないけど、長岡から新潟絵屋に行く途中に出会った素敵なモノ。 新潟帰りの Harley‐Davidson 1台、灯台マークの NORTH BOOK STORE の書皮 ( ブックカバー) 1枚。

                     


木村伊兵衛の写真

2011-09-27 | 日記

                           

探し物があって、木村伊兵衛 ( 1901-1974 ) の写真集を見ていたら、やはり気になるのはここに掲載した1953年撮影の 「 秋田おばこ 」 。それと1956年撮影の 「 母と子 」 。いずれも撮影地は秋田県大曲。 


砂丘館での末松正樹展

2011-09-26 | 日記

                                ( 案内状 )

「 末松正樹の時代展 」 2011年10月4日 ( 火 ) - 11月6日 ( 日 ) am9.00-pm9.00。砂丘館ギャラリー ( 新潟市中央区西大畑町5218-1 ) にて。末松正樹 ( 1908-1997 ) はかつてはモダンダンサーであり、戦後、日本の抽象絵画のパイオニアになった。彼のタブローは実に自然の光である。 「 光のアブストラクト 」 である。この作品を見ていかがでしょう。

             

             「 対象のないひろがりの中で 」 1978年制作 キャンバスF50号 ( 116.7㎝×91.0㎝ )