「矜持」

2017-01-31 | 日記

    

津村信夫(1909-1944)の詩集『愛する神の歌』に「矜持」という詩がある。

 

とまれ、一つの矜を持つことは、/ 橋や建物は、ときに奇妙に冴々しい影を落す、川波に、地の面に。

それに見入るのは私だ、私はいそいで衣服を脱ぐ。/ あらはな胸に白鳥をだき、その羽搏きに、耳を籍す。

問ふ勿れ、ひとよ、/ かくも明らかに鼓動うつ、このひとときの私の晴着の心を。

 

写真はやはり先週の土曜日に撮った守門岳である。刈谷田川は厳冬の流水である。刈谷田の川波は「ときに奇妙に冴々しい影を」流している。しばらく僕はこの雪景に「見入」っている。しかし、僕は急いでさえもユックリでさえも、勿論寒いので「衣服を脱」がないのだった。だが「問ふ勿れ、ひとよ」、こんなにも白くも寒い風景の中に佇んでさえも、何故か僕は自分が「明らかに鼓動」しているのを感ずるのである。2017年1月のある日に、雪の上に僕の影があり、川面に僕の形が映り、変幻に揺れていたのだった。「矜持」とは、今ここに在る、と言う意味ではないだろうか。プライドとはわが心の中の白鳥の羽搏きである。詩人の矜持についてのこの詩的表現を、僕はとても美しいと思う。

 


飛行機雲

2017-01-30 | 日記

     

1月28日土曜日の晴れた夕方の空に、一すじのラインが引かれた。光る西の彼方へ、飛行機の航跡は消えて行った。夕方、いい天気になったから外に出て深呼吸をして、この空を写した。雪に冷やされた空気が僕の眼を啓くのである。しかし、ひと日、折角の青い空と桃色の雲が夕闇に暮れて行った。幸福に似た悔恨のように…または充たされた別離のように…。それで、このシーンはもう二日前のものになってしまった。

ところで、僕の家の玄関には、もう何日も何日も赤い南天と白い南天が薄茶色のガラスのピッチャーに活けてある。赤い南天の実は、白い冬には一個の明かりである。それは僕の、落葉の堆積の埋火の黄昏の恋歌のようでもある。雪国の雪の中の憂愁は、季節の憧憬の陰りであるが、ひとつひとつの小さな赤い実の存在は僕のファンタジーである。

 


晴天

2017-01-29 | 日記

   

今朝はいい天気になった。青と白のコントラストが清澄である。家の南西方向の8時過ぎの空を撮った。目覚めは5時頃だったが布団の中で本を読んでいて、ウトウトと気持ちいいのだったから、朝日がカーテンから入って来ているのが分かっていながら、起きて雪の中の太陽をオガモウと思いつつ、それはめったにない良い天気なのに、朝の布団の中はしかし最も気持ちいいのである。しかし、今朝の外はそれ以上にいい気持だった。 青い空と白い雪!

   

この写真は家の前のストリートで、正面に写る高い木立は神社の杜である。1月15日のブログの写真と同じ方向を今朝に撮っているから、今日でちょうど2週間後の雪の量が分かろうというものである。

 


大雪注意報の今朝

2017-01-15 | 日記

  

日曜日の今朝は、昨日と打って変わって晴天となった。昨日も一日中雪は降り止まなかった。その中で、屋根の積雪は1メートルを超えていたから今季第1回目の「雪掘り」だった。お正月には何も雪はなかったから、今年は降らないことを密かに期待していたのだったが、自然はやはり雪を降らすのである。これが自然というものだろう。この写真は家の雪囲いの板の隙間から撮ったもので、この白と青の世界が爽快で、雪に閉ざされた数か月間の日々の、稀な青空である。予報では、午後からまた雪が強まるという。あり難きかな、つかの間の空の青さよ! 下の写真は家の前の道路から巣守神社の杜を望む。画面の右上に太陽があって、実際、杜の凍れる樹々の先端が揺らぎ光っている。