大晦日
今日でまた一年が、いつもと同じように暮れて行く。この刈谷田川も一年前と同じに流れているようで、はたしてそうだろうか。行く川の流れは絶えず同じように流れてはいるが、はたして同じだろうか。降る雪もまたそうだろうか。そうしてまた一年が過ぎたのである。今年もブログを読んでいただいた方々に感謝致します。
今日でまた一年が、いつもと同じように暮れて行く。この刈谷田川も一年前と同じに流れているようで、はたしてそうだろうか。行く川の流れは絶えず同じように流れてはいるが、はたして同じだろうか。降る雪もまたそうだろうか。そうしてまた一年が過ぎたのである。今年もブログを読んでいただいた方々に感謝致します。
岐阜県美術館所蔵のオディロン・ルドン作 『 風景 』 ( 油彩画 ・ キャンバス )
1875年5月7日 森に向かって窓を開いた部屋で、読書をするのはなんと楽しいことだろう。なじみのダンテを開く。ダンテと別れることはあるまい。友情の相手としてもはや離れられまい。セヴィニェ夫人を読み返してみた。時と場合によっておそらくこれも友となるだろう。いかにも魅力的な精神として。 「 娘よ、私は筆が走るままにまかせます 」 とか 「 月と一緒に、静かに黙って、散歩しました 」 。
読書は精神の糧だ。思想の遺産を残した人物の大きな精神と、静かに無言の対話をすることができる。しかし読書だけでは、健全な強い精神をかたち作ることにはならない。精神を養い、魂を養う養分を吸い取るためには、眼が欠くべからざるものだ。眼を持っていない者、見る能力、正しく見る能力をある程度持っていない者には、不完全な知性しかないだろう。見るとは、ものの関係を無理なく把握することだ。
この文章は、ルドン著・池辺一郎訳 『 私自身に 』 ( 1989年第二刷 みすず書房刊 ) からの引用。見ることはものの関係を把握することだ、という意味は、見ることは関係性を把握するのだから、ものとものとの関係に潜むバランスとか調和とか、そういうものを感覚することだろう。見ることは、自然の摂理や法則を、身についたセンスが感ずることなのかも知れない。読書はそのためのひとつのメッソードであるだろう。自然を感覚することはなんと楽しいことだろうし、喜びであるだろう。ルドンは自然から多くのことを学んだという。
西脇順三郎の著書に 『 メモリとヴィジョン 』 ( 1956年 研究社刊 ) というのがあって、その中に1953年に書かれた 「 手紙 」 という随筆がある。D. H. ロオレンス ( 1885-1930 ) とキャサリン・マンスフィールド ( 1888-1923 ) の手紙の文体を比較している文章である。文章の終わりに、ロオレンスが彼女にやった手紙の一部が紹介されていて、これが今日の山間の小村の雪の日に、何故かピッタリのような気がしたので、紹介します。
It is snow, snow, here ― white, white, white. Yesterday was the endless silence of softly falling snow. I thought the world had come to an end ― . Nobody comes, the snow is white on the shrubs, the tuft of larches above the road have each a white line up the trunk.
西脇は、この雪の景色は彼の肉体を感じさせる、と感想を述べている。20世紀初頭の英国の村にも雪は小止みなく降っていた、のだろう。
今夜、ボンヤリTVを見ていたら、武士姿の役所広司が映っていた。しばらく見ているとどうもこれが面白いのである。結局、最後まで見て感動したのだった。何に心が動いたか。江戸時代中期すなわち18世紀初頭の武士社会における男の、女の 「 思い 」 にであった。勿論、映画だから現代の感覚がない交ぜになっていることは百も承知なのだが、ここは映画の世界に浸るしかないのである。浸りながらも、男は女の髪の毛一本でさえ生きられる、というのであり、女は男の生きる姿を思うだけでも生きられるのであった。そして自分の命は自分のものではあるが、同時にわが命は自分のものではないのであった。自分の命は自分のものではないのだと、そう自覚した時、自分がこの世に生れた使命を鮮明に思うのである。この映画の登場人物たちは皆、使命がある時は生であり、使命が終わった時は死であった。そういう意味では生と死は明瞭なのである。男も女も明瞭であった。女は男を慕い続けるのであり、男は女を愛するのであるが、しかし、武士というものは心の中に女を住まわせるわけにはいかないのであった。悲しいかな、武士なるものは主君への忠義を、命を懸けて大義名分とするのである。
音楽も良かった。思うに、くれないの血のような、武士の切なさが流れていたのである。