『 江戸芸術論 』

2011-05-10 | 日記

雨上がりの春の入相。空気は霞んで春の新芽は一入湿っている。遠くで牛の啼く声か…、どこか悲しげであった。すでに蛙も鳴き始めた。水田の鏡に映るは隣家の明かりである。午睡のあと、荷風の 『 江戸芸術論 』  ( 岩波文庫版 2000年1月発行 ) を読む。ここに鈴木春信の 「 絵本春の錦 」 「 絵本青楼美人合 」 について語る荷風の独創のセンスを見る。それはまた西洋美術に対する日本美術の独立を明かしてやまないのであった。以下、その部分の引用。

「 春信が女はいづれも名残惜しき昼の夢より覚めしが如き目容 (まなざし) して或るものは脛あらはに裾敷き乱しつつ悄然として障子に依りて雨斜めに降る池の水草を眺めたる、あるひは炬燵にうづくまりて絵本読みふけりたる、あるひは帯しどけなき襦袢の襟を開きて円き乳房を見せたる肌 (はだえ) に伽羅焚きしめたる、いづれも唯美し艶しとはいはんよりはあたかも入相の鐘に賎心 (しずこころ) なく散る花を見る如き一味の淡き哀愁を感ずべし。 」

「 余は春信の女において 『 古今集 』 の恋歌 ( こいか ) に味ふ如き単純なる美に対する煙の如き哀愁を感じて止まざるなり。人形の如き生気なきその形骸と、纏へる衣服のつかれたる線と、造花の如く堅く動かざる植物との装飾画的配合は、今日の審美論を以てしては果していくばくの価値あるや否や。これ余の多く知る処にあらざる也。余は唯此の如き配合、此の如き布局よりして、実に他国の美術の有せざる日本的音楽を聴き得ることを喜ぶなり。この音楽は決して何らの神秘をも哲理をも暗示するものにあらず。唯吾人が日常秋雨の夜に聞く虫の音、木枯の夕に聞く落葉の声、または女の裾の絹摺れする響等によりて、時に触れ物に応じて唯何がなしに物の哀れを覚えしむる単調なるメロデーに過ぎず。浮世絵はその描ける美女の姿態とその褪めたる色彩とによりて、いづれも能くこの果敢なきメロデーを奏するが中に、余は殊に鈴木春信の板画によりて最もよくこれを聴き得べしと信ずるなり。 」

異国の言語・文学に通暁した荷風の江戸文化への思慕と愛惜であった。そして、江戸から連綿と続く通奏低音を聴く、静聴の人であった。

写真は、昨日の皐月の空に、山あいの雪深い里に遅い桜が咲いていた。立夏はもう過ぎていた。