昨日のブログで紹介したこれが宮下誠著『 越境する天使 パウル・クレー 』の表紙である。表紙の絵は、クレーの「新しい天使」1920年 (イスラエル美術館蔵) 。大きさ・31.8×24.2cm、紙に油彩転写・水彩。作品は厚紙に貼付け。というキャプションがついている。この絵について、著者はヴァルター・ベンヤミン (1892-1940) のテクストを紹介しているのでここにそれを書いてみる。
「新しい天使」と題されたクレーの絵がある。それにはひとりの天使が描かれていて、この天使はじっと見詰めている何かから、いままさに遠ざかろうとしているかに見える。その眼は大きく見開かれ、口はあき、そして翼は拡げられている。歴史の天使はこのような姿をしているにちがいない。彼は顔を過去の方に向けている。私たちの眼には出来事の連鎖が立ち現れてくるところに、彼はただひとつの破局だけを見るのだ。その破局はひっきりなしに瓦礫を積み重ねて、それを彼の足元に投げつけている。きっと彼は、なろうことならそこにとどまり、死者たちを目覚めさせ、破壊されたものを寄せ集めて繋ぎ合わせたいのだろう。ところが楽園から嵐が吹きつけていて、それが彼の翼にはらまれ、あまりの激しさに天使はもはや翼を閉じることができない。この嵐が彼を、背を向けている未来の方へ引き留めがたく押し流してゆき、その間にも彼の眼前では、瓦礫の山が積み上がって天にも届かんばかりである。私たちが進歩と呼んでいるもの、それがこの嵐なのだ。
ここでベンヤミンの言う「嵐」なるものは “ 時代の空気 ” というものだろうか? 彼が生きた時代はナチズムという最悪の嵐が吹いていた。この絵が描かれたのは1920年であるが、ベンヤミンは彼が生きて呼吸している “現在” にこの絵を感じたに違いない。絵という作品は、描かれたその時代でなくて、それに向き合うその時代時代の人の “現在” で感じるものだろう。
進歩とは、未来のことだろうか? という疑問がわく。しかし、実は、進歩とは「新しい天使」が顔を向けている過去のことではなかったか! ベンヤミンはこの「新しい天使」を “歴史の天使” と見たのだった。なぜ、“歴史” だったのだろう?