牛の声

2011-04-20 | 日記

涼しい春の朝、フトンの中で20世紀初頭パリのオデオン通りの書店を覗く。アドリエンヌ・モニエ著 岩崎力訳 『 オデオン通り 』 ( 1975年河出書房新社刊 ) を読む。第一次世界大戦のさ中1915年、一人の文学少女だったパリジェンヌがセーヌ左岸オデオン通り七番地に本屋を開いた、 『 本の友の家 』 。時代を作った作家や詩人たちが集った。ジイド、ラルボー、クローデル、プレヴェール、レリス、ブルトン、サティー…。ポール・ヴァレリー ( 1871~1945 ) がモニエ ( 1892~1955 ) に書いた手紙の一節、

余人は牧場を好む だが賢人の最たるものは                               あなたの店に赴いてバラを否認する                                        おお モニエ嬢よ!

この写真は牛の陶製置物です。なぜ牛かというとこの本に、 「 1915年末の最初の嬉しい出来事、それはポール・フォールが訪ねてきてくれたことだった。…若い娘にとって、生身の詩人の代表として彼以上の人はいなかった。長髪の頭に緑の平らな帽子をかぶった彼の話振りは華やかだった。その暮らしぶりは自由そのもの、まったくこだわりがなく、本当のボヘミヤンそのものだった。高名なボヘミヤンそのものだった。それに私は彼のバラードを読んだことがあり、大変彼を尊敬していた。 『 捨てられた礼拝堂 』 は私がこの世でもっとも愛する詩のひとつだったし、いまもそのことに変わりはない。私たちはしばしば “ 牛の声は牛の中にある ” と言っては楽しんだものだったし、それは人生を確固たるものにするおまじないのように思われた 。」 という文があったからで、たまたま李朝箪笥の上にこの置物があったからに他なりません。

春の朝にこの本を読むことは、先のヴァレリーの手紙の続きにならうと、読者として 「 その一人であることに 心からなる幸福をおぼえつつ 」 。                                                           

 


ナチスの時代に

2011-04-13 | 日記

山脇道子著 『 バウハウスと茶の湯 』 ( 新潮社1995年刊 ) 。道子は夫の建築家・山脇巌  ( 1898~1987 ) とともに一九三〇年十月バウハウスに入学しました。そして一九三二年九月、このデッサウ・バウハウスはナチスの台頭により閉鎖になったのでした。これは夫妻の二年間の短く濃密な学園生活を回想した本で、カンディンスキー ( 1866~1944 ) やアルバース ( 1888~1976 ) にも習った道子だったのですが、織物の先生であったオッティ・ベルガー先生には特別にお世話になったそうです。その後、先生はアウシュビッツの強制収用所で亡くなった、ということをグロピウス ( 1883~1969 ) が来日した時に聞いたのでした。

「 オッティ・ベルガーは、耳が不自由でしたので、相手の口を見て話を読み取り、ちょっと変わった声で話す方でしたが、本当に熱心に毎日つきっきりで織りの方法を指導してくれました。…一九三二年十月デッサウで、日本に帰るためのお別れに行った時、私がお別れの記念にと、日本から持参していた赤い大きな掛け袱紗をプレゼントすると、彼女は目をしばたたかせながら、自分の髪飾りである小さなセルロイド製の赤いバラをはずして、私の胸にさし、美しいネックレスもプレゼントしてくれたことが思い出されます。戦後になり、一九五四年五月にバウハウスの初代学長グロピウス氏とその奥様が来日され、我が家にいらっしゃいましたが、その時、オッティがアウシュビッツの強制収容所で痛ましい最期をとげたことを知りました。 」

 

Otti Berger ( 1898~1944 ) 。 ユーゴスラビア生まれ。1926年バウハウス入学、Paul Klee、Wassily Kandinsky の授業を受け、後年、織物科で教えた。1944年死去。テキスタイル・デザイナー。

 


『 精神と空間 』

2011-04-06 | 日記

建築家・白井晟一の展覧会カタログです。パナソニック電工汐留ミュージアムで今年1月8日から3月27日まで開催。白井晟一 ( 1905~1983 ) はその若い頃、哲学を学ぶためにドイツ留学しヤスパース先生に学んだといいます。この写真の風貌からして建築家というよりは哲学者の雰囲気を湛えています。 

自邸・虚白庵には 「 窓がない 」 といわれ、このカタログに紹介されている写真では、ほの暗い室内にコリント大理石の頭部がスポット照明されています。 光のボリュームの違いこそあれルイス・バラガン ( 1902~1988 ) の自邸とも共通するような精神的空気感を漂わせています。                                                 

『 白井晟一、建築を語る 対談と座談 』 ( 2011年 中央公論新社刊 ) から彼の言葉を抜粋。

「 …いわば俗の建物で窓を少なくするのは全く骨が折れた。…建築主は僕の非近代建築、つまり開口の少ない建物を喜ばない。注文が無いはずだ。本を読んだり、近所の彫刻家のアトリエで粘土をいじらせてもらったり、たのまれもしないプロジェクトで気休めしているほかなかった。一日一食も、そのころ覚えた。そりゃ、だんだん閉鎖的になるのはやむをえんね (笑) 。 」

「 …貯金できるものなら、何とかしてこの自由な時間だけは溜めておきたいと、いつも思っています。…曲がりなりにも今日の自分に漕ぎつけられたのは、こうして頑強に自由を守ってきたからだとつくづく思う。歴史が進めば進むほど、人間の自由は守りにくくなる。まず生活に、欲望に、思想に脅かされる。心の自由は安穏じゃない。その上、何を好んで情報化金権社会にふり回される。抵抗する勇気も気力さえ無くなってしまっては、全く元も子もない。だが一旦 「 クリエイション 」 のことになれば、これは暢気なことでは始まらない。襟を正して、自由という大前提を考えて欲しいのです。長い歴史を経て、今日なお、その自由に出発しなかった伝統継承や模倣性の後遺症の自覚すら希薄というんでは困るんだ。…こんな話も、一つはこれを貫くための苦渋な自戒だと聞いてもらえばいい。文化も伝承も創造も建築も、みんなこの自由な理性の基礎の上の仕事というよりほかないんだ。風呂敷をひろげすぎたかな (笑) 。 」

 


99歳の個展

2011-04-02 | 日記

今、長岡市袋町の ギャラリー mu-an で丸山正三の個展 「のりおくれたコドモたち」 が4月5日(火)まで開催中です。写真は、在廊中の先生が、講演のために来岡されたジャーナリスト櫻井よしこ氏との歓談中を謹写したものです。画面左下の子供たちが穴を覗いている絵は、先生の平成22年第74回新制作展出品作でその図版をカラーコピーしコラージュしたもの。

丸山正三氏は1912年 (大正元年) 生まれ、今年白寿になられます。毎年新制作展には新しい作品を出品し続けています。 「あたり前のことを描いていきたい」 と仰る先生の眼差しと言葉はあたたかく明晰でありました。僕はこのコラージュポートレートのタイトルを尊敬の思いを込めて “ I am a mind ” としました。