今朝から猛烈に雪が降っているから、この際はシビレる他ないのである。窓からのいつもの光景が雪に霞んでいる。 “ 定点観測 ” 的な昨日の写真を見れば、雪が如何に降っているかがよく分かる。それでやっぱり今日も、ピーナッツを食いながら(もう少しでピーナッツ缶が底をつくから、無くなるまで)僕は19世紀のパリをウロツこうと思う。『異都憧憬 日本人のパリ』を読む。それで、この本で紹介されている、若きロシア人女性画学生マリー・バシュキルツェフ(1858-1884)が遺した『日記』が読みたいと思った。彼女がパリに出て、女性にも門戸を開いていた唯一の画学校、アカデミー・ジュリアンでの日々の生活と、どんな思いで画家を目指していたのかが読みたいと思ったからである。男女不平等の世紀にあった当時のパリ暮らし。女性として芸術家になろうとする当時としてはとんでもないその決心!
そして先日、日本で翻訳された大正15年刊行の野上豊一郎訳『マリ・バシュキルツェフの日記 上巻』及び『日記 下巻』(こちらは昭和3年刊)を「日本の古本屋」サイトで僕は入手できたのだった。天金で濃緑色のハードカヴァー本が届いたのである。『日記』は1873年から始まり1884年10月20日で終わっている。そして、芸術家としてのタブローとドキュメントとしての文学的気品ある『日記』を後世に残して、ロシア貴族の娘にして美貌の彼女は10月31日に26歳で死んだ。肺結核だった、という。『日記』には序文(パリにて、1884年5月1日)が書かれてあり、その冒頭を引用する。
欺いたり気どったりして何になろう?ほんとうに、私はどんなにしてもこの世の中に生きてゐたいという、望みでないまでも、欲望をもつてゐることは明らかである。もし早死にをしなかつたなら、私は大芸術家として生きてゐたい。しかしもし早死にをしたらば、私のこの日記を発表してもらひたい。これはおもしろくない筈はない。 — けれども私が発表のことを云つたりすると、読まれたいといふ考えが或はすでにこういふ書の唯一の価値を傷つけ破りはしまいか?いや、決して! — なぜといふに、第一、私は長い間読まれたいといふ考なしに書いてゐた。次に、私が飽くまでまじめであるといふのも、つまりは読まれたいと思ふからである。もしこの書が正確な、絶対な、厳正な真実でないならば、存在価値(レーゾン・デートル)はない。私はいつもただ、私の考へてゐるだけのことを云ふのみではなく、また或は、私を滑稽に見せるかも知れず、私の不利益となるかも知れぬことをも隠さうと思つたことはなかつた。… ここに一人の人間があって、子供の時からのすべての印象をあなたに話すのだと。それは人間の記録(ドキュマン・ユマン)としておもしろからぬ筈はありません。ムッシュ・ゾラにでも、ムッシュ・ゴンクールにでも、またはモオパッサンにでもお聞きなさい。私の日記は12歳の時から始まって15,6歳から幾らか価値を持ち始めます。だから埋めらるべき空虚があるわけです。それで序文のやうなものを書き添へて、読者をしてこの文学的な人間的な記録を辿るに便利ならしめやうと思ひます。…
1876年(18歳頃)のマリ