天気がよかったから、「花の家」を描く

2018-04-29 | 日記

              

今日もいい天気になりました。窓を開けておくと家の中にも春風薫るの、いい風のそよぎである。なので、絵もそんな感じの絵が出来上がったのだった。午前中は、今、東京の三菱一号館美術館で開催中の『ルドンー秘密の花園展』のお借りした展覧会カタログを見ていたが、おこがましくもオディロン・ルドン (1840-1916) に触発されてスケッチブックを開いたのだった。年譜によるとルドンは24歳の時にカミーユ・コロー (1796-1822) に出会っているが、ルドンはコローの言葉としてこんなことを記している、というのである。

「不確かなものの傍には、確かなものをおいてごらん」とコローは私に言った。そして繁った木の葉が一枚ずつ刻み込まれたように描かれているペンのデッサンを見せてくれた。「毎年同じ場所に行って、木を描くといい」と彼はつけ加えた。

そして、僕はいつもの二階の窓を開け放して、田んぼの水面の揺らぎの風薫る、を五感で見ているのである。風は「不確か」で、薫るも「不確か」で、にもかかわらず僕はそれらを「確か」に感じているのである。そうして思うのは、僕は「不確か」な風と「不確か」な薫るを、いつかに描いて見たいと思うのである。

 


ビスクドールと長谷川潔

2018-04-24 | 日記

        

書斎に飾られたビスクドール、掛かる絵は長谷川潔の銅版画。春の夜を一人静かに楽しむ一時。人形を立たせてみたり、座らせてみたり。顔の向きやなんかでも雰囲気が変わるから、これでいいのだ、ということはない。人形といえどもある種の見えない力を発散していて、不思議といえば不思議な感覚である。そして感情も … また。まだ調べていないが、この人形の出生地はフランスだろうかドイツか、DOLLSの世界も深い。そして、この人形にはまだ名前がない。やはり『竹久夢二詩画集』より「最初のキッス」という詩を引用する。

        

              五月に

              花は咲くけれど   

              それは

              去年の花ではない。

 

              人は

              いくたびこひしても

              最初のキッスは

              いちどきり。   

 


初夏のような一日でありました

2018-04-21 | 日記

      

      

隣家の桜が一昨日には満開になって、まだまだ今日も楽しめる。新芽も芽吹いて緑の色がとてもやわらかいのが気持ちいいのである。桜の写真を掲載していながら、最近入手した岩波文庫版の『竹久夢二詩画集』の夢二 (1884-1934) の詩に「春の夜の髪」というのがある、ということでもないけど、夢二の春の夜の歌があまりにもアンニュイなので、ここで、春が来たことを実感しないわけにはゆかないのだった。今日の一日はあまりにも昼の光景だったから、春の夜に限って見てもこれはこれでこの詩の世界観を彷彿するのである。

      春の夜の

      心にすこしかかるもの

      ひとすぢのこる黒髪か

      わすらるる身のいとしさか。

      「夜は夜とて 昼は昼ゆゑ くろかみの いたづらに みだれそめしか」

      よみすてし文殻(ふみがら)なるか

      春の夜の

      心にすこしおもきもの

           春の夜の青き窓かけゆれやまず 君ならざれば春のといきか

      

      

 


「女の顔」

2018-04-02 | 日記

            

夜の時間に描く、「女の顔」。空想の、思い付きの、思い出の絵の印象の、そして、また一日が終わるのである。この絵は、僕の一日の、生きた痕跡に過ぎないのである。他のことで痕跡の残しようがあるであろうに、と思われるかも知れないが … 。しかし、これしかないのだから、オソレイリヤの大明神様である。今日は他に書くことは何もない。