信濃川夕景

2010-05-30 | 日記
すでに陽は没して、流れ行く雲とうすい空の色彩に、金星は感傷するばかりであった。 この夕景こそが一日の終わりを告げるのだ。

僕らは信濃川の水辺に立ち、蝙蝠がせわしなく飛び交う川面のさざなみのささやきを聴くばかりであった。

遠く、鉄塔の赤いランプが言葉を捜すように明滅していた。岸辺の草むらには、それは例えば花が散ってゆくように、静かに夜の帳が降りていた。


佐藤春夫の第一詩集 『 殉情詩集 』 より 「 水辺月夜の歌 」 。
            
    せつなき恋をするゆゑに
    月かげさむく身にぞ沁む。
    もののあはれを知るゆゑに
    水のひかりぞなげかるる。
    身をうたかたとおもふとも
    うたかたならじわが思ひ。
    げにいやしかるわれながら
    うれひは清し、君ゆゑに。         



月氏幻想

2010-05-28 | 日記
深更に至り雨が上った。おぼろの満月を水田に映して、夜がさらに深くなった。蛙が一匹足下で啼いている。なぜ今夜は一匹なのだろう…。

昨夜、18年振りに深草アキ ( 1949年生 ) の演奏会に行きました。演奏会場は長岡市内の安善寺本堂。
中国の古楽器・秦琴 ( しんきん ) の奏者で、僕を遠い追憶の 「 彼方へ 」 運んでくれたのだった。三本の弦が奏でるのは、哀しく美しい追憶への誘いだった。                     

タイトルの 「 月氏幻想 」 というのは彼のオリジナル曲名です。月氏 ( げっし ) とは、秦の始皇帝時代の頃の遊牧民族のこと。

時に、季節はずれの寒いおぼろ月夜には、 「 幻想 」 を楽しみとする。
  
            

神像

2010-05-26 | 日記
「 まなざしは彼方へ 」 紀元前のアフリカの神像、テラコッタ。

以前、MAX ERNST ( 1891-1976 ) の自邸の写真集を見ていた時、これと同じヨウナものがテーブルの上にあるではないか!…と記憶違いでなければいいのだが…。これからその写真集を探し出さなければならない、この本探しも、きっと難航を極めるだろうな…。

爬虫類から何か神聖なものへ脱皮を遂げた後の、腕組みをしているのか、それとも小さな生命を大切に抱えているのか。
真直ぐに背筋を伸ばし、見つめる視線は 「 彼方へ 」 。シャルルヴィル生まれの天才詩人 ARTHUR RIMBAUD ( 1854-1891 ) の有名なポートレートがありますが、像はこのランボーの姿勢と同じだな、と僕は思います。

「 小さな生命 」 と 「 永遠の彼方 」。それらを同時に内包する得体の知れない 「 神像 」。古代人の計り知れないイマジネーションと造形力。   

    

田園に雨がふる

2010-05-25 | 日記
      
         むらさきの花が咲いていた。
         雨にうたれて咲いていた。
      
         やるせない田園に、ゴッホの絵のような
         光琳の屏風のような、雨が降っていた。
               
         ボヴァリー夫人が耳もとでささやく
         ように微かに風がそよいだ。



THE CHAIR

2010-05-23 | 日記
ハンス・ウェグナー の代表作 “ ザ・チェアー ” です。昨夜、知人ご夫妻宅にてこの椅子に座らせていただきました。入手 エピソード を聞けば、積年の思いと共にデンマークまで出かけてしまったそうです。
革の座面のクタクタ感と部材の色あせがなんともいい感じでした。ご夫妻にたくさん愛されているんでしょうね、この椅子は。
物も、愛されれば必ずその レスポンス をするものです。

美と機能が融合したウェグナーの椅子。椅子は単に物体に過ぎません。しかし物体にも ヒューマニティー が潜んでいるはずです。なぜなら、一人の人間が生涯をかけたものに、その人間の スピリット がこもらないはずは無いからです。

ご夫妻宅は実にミニマルな空間でした。しかし実に心地よい atmosphere でした。