世の中は今日明日知れずはかなきは風にゆれてるむらさきの花
今は真夜中、さっきまで 『 久保克彦遺作画集 』 を開いていた。見附市在住の女性詩人の方からいただいたものだが、これがとても面白いのである。面白いと言っては誤解を招くが、大変インスパイアされるのであった。久保克彦 ( 1918-1944 ) は26歳で戦死した。残された絵画、詩篇は少ない。彼は稀なる画家であり、詩人であった。そこで少しでも長岡の人たちにも知って頂くべく貧しい筆を執った。毎月一日発行の “ マイ・スキップ7月号 ” に掲載される予定である。その少ない詩篇に 「 楕円の歌 」 と言うのがある。
そして貴女は誕生する。
う”いなすの泡沫よりも艶やかに、
麗はしくも地上の歌を歌ふ
永遠のしんめとりいの悲しさよ。
切子硝子のこっぷには
とうめいなる空色の液体を盈 ( み ) たし
星を映して六十度に傾け、
一握の地上の天景に接吻 ( くちづ ) ける。
ところで今日、お世話になった隣のお爺さんが脳梗塞で死んだ。享年93歳というから1920年生まれで、お爺さんも戦場に行ったというから久保克彦より二歳下に過ぎない。夕方七時からこので言う 「 まくら念仏 」 があった。死んだその日、近所の人たちが集まって坊さん抜きで読経唱和するのである。最近の母は足が思うように動かないので、母が経文を持たしてくれて僕が出席した。唱えながら経文を見ていると、専門用語的いろいろたくさんの知らない言葉が殆どであった。が、漢詩として読めばそうでもなく結構身につまされたのである。「 地蔵和讃 」 ( じぞうわさん ) というその一節の抜書きである。
無始 ( むし ) より我等流転して
いつか生死 ( しょうじ ) を離るべき
六種輪廻 ( ろくしゅりんね ) の有様は
車の廻るが如くなり
正に 「 永遠のしんめとりいの悲しさよ 」 である。人間の生命と言えども、それは星辰の運行のように永遠に転生する輪廻の 「 楕円 」 軌道の上にあるのであった。「 車の廻るが如くなり 」 とは言ってみれば、 「 無始 」 より始まり 「 無終 」 ( なんて言葉あるかナ? ) で終わるのである。