分類:観
鹿島町を見て歩こう㊲
《御代地区》 いわき市鹿島町御代字柿境 天明飢饉の墓石と塔婆
鹿島街道を小名浜方面へ向かい、船戸の信号を通過して約50メートルほど行くと 左に入っていく細い道がありますが、そこが旧道です。 そこから20メートル先、山側に2基の墓石が並んでいます。
注目すべきは墓石に天明3年と刻まれている痛ましい文字です。 《天明の飢饉で亡くなった人の墓石》
いわき地方を飢饉が襲ったのは過去に何度かありますが、鹿島町に天明の飢饉で亡くなった人の墓石が畑の片隅にひっそりとあるのは意外と知られていません。
天明飢饉(1781~1789)は、有史以来の大量死を記録した飢饉で、長期間に亘って全国で天候の不順や天変地異が続きました。人々の間ではこの世の終わりかと騒ぎ立てるほどでした。
特に東北地方では冷害で壊滅的被害を受け、おびただしい餓死者を出しました。天明3年(1783)には浅間山が大爆発を起こし、東北地方の冷害に追い打ちをかけ大凶作に拍車をかけたのでした。
《塔婆の文字が全てを物語っている》 《旧道に入って車のある所を左に入る》
墓石の裏側に置かれてあった塔婆を見て唖然としました。数年前に供養が行われたのでしょうが、塔婆に書かれた文字が当時の悲惨さを今に伝えていたので 、そのうちの3枚を列記してみるとこうです。
咽喉広大飲食充満 恐怖悉除離餓鬼趣 唯身土己心弥陀
磐城地方で記録に残っている飢饉は、寛延・天明・天保の時代で、冷害と疫病に悩まされ庶民の中には 「間引き」 といって食べ物が尽きた家では、幼児を殺すしかない状況に追い込まれたところさえあったようです。 ●間引き=口減らし