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いわき鹿島の極楽蜻蛉庵

いわき市鹿島町の歴史と情報。
それに周辺の話題。
時折、プライベートも少々。

天狗が落としていった石

2018-04-13 06:56:40 | Weblog

                                            分類:観                                          鹿島町を見て歩こう㊹     《走熊地区》    いわき市鹿島町走熊字山ノ神                   天狗が落としていった石                                                  鹿島小学校から、かしま幼稚園がある道を通り、 中央台へ向かって行く途中の左側に高さ約1,5メートル、横幅3メートルくらいの岩石が見えます=写真。                                      石質は風化しやすい凝灰岩ですが、この石は 「天狗岩」 といって昔から言い伝えがあります。                                        《石に平成23年(2011)まであった根性松》

 子供の頃に聞かされた 「むかーし、昔……」 で始まる例の地元版、伝説です。                  むかしむかし、高寺山(たかでらさん)に悪魔や病気を追っ払う天狗様が住んでいた。高寺山とは「磐城三十三所観音」の1つに数えられ、その17番目のお参り場所です。                         その天狗様は気が優しくて力持ちときているから、村の人たちから非常に親しまれていたがある日、この地の安泰と平穏を悟って山から飛び去っていく事になった。                                   ところが、その時に天狗様の下駄の歯に引っ掛かっていた小石が田圃に落っこちて、だんだんと大きくなっていき今のような岩になりました。。                                                              天狗様が残していってくれたお守りとしての人は大切にしました。岩の上には1本の松の木が生えていて、土がないのに元気に育っているのは、根っこが岩の割れ目を伝って長く伸び、田圃の地面から栄養分を摂っていたからです。                                              《無残な最期を遂げてしまった松の木》

 ところが、残念無念。平成23年(2011)のことでしたが、田圃の所有者が松の根っこが余りにも伸びすぎて稲作に支障を来すことから、根っこを切り落としてしまいました。                         松の木は、日に日に枯れ始めてしまい、天狗岩と松の木が一対となって親しまれてきた歴史は、もろくも終焉を迎えてしまいました。 

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福生院蔵福寺

2018-04-12 07:06:09 | Weblog

                                分類:観                
鹿島町を見て歩こう㊸     《走熊地区》
                   高野山真言宗 天徳山福正院蔵福寺                                                                   いわき市鹿島町走熊字坪下28          
福正院蔵福寺 
蔵福寺の開山いついての詳細は不明ですが、過去帳からすると宝永5年(1708)10月28日に、法印堅秀が入寂している記録があり、それ以前法印堅秀第4世の記から1700年以前に開山されている事は推定できます。
                         
   
《鹿島の中心地が眺望できる蔵福寺と境内》


 その頃は、山号を鬼渡山(きわたりさん)と呼んでいました。                                         禅東は、植田の東光院・及び長孫(湯本)の長宗寺にも転住(移って住職となる)しています。第16世の寿栄は宝暦3年(1753)に勝行院(湯本)に転住したという記録があります。                                蔵福寺は昭和4年(1929)の走熊の大火(鹿島の大火ともいう)の難を逃れた古寺(写真のいちばん下を参照)で、暫くは廃寺となっているが部落の檀信徒に護られて維持されてきました。                                                             蔵福寺(現在)の屋根の形は、白水(内郷)の阿弥陀堂を参考にして造られたと言われています。


                                                                                    《かしま幼稚園側道路から見た蔵福寺》


 走熊には、高寺山(標高126m)にある磐城三十三所観音の17番札所、高照観音(本尊十一面観音)と、ゆかりの東泉寺(現在は寺跡のみ)と、蔵福寺境内の八坂神社(古い神号を牛頭天王※ごずてんのう・徐疫神)があります。


                                                                                 《平成1年(1989)まであった茅葺きの蔵福寺》


 かつては、前述の3ケ所で地元青年団によって獅子舞と棒術の奉納が8月17日(八坂神社では15日)に実施されたが現在には至っていません。


     


     

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愛郷一道の石碑

2018-04-11 06:49:53 | Weblog

                                                    分類:観                                           鹿島町を見て歩こう㊷     《下蔵持地区》   いわき市鹿島町下蔵持字戸ノ内                                  愛郷一道の石碑                                             この石碑は、湯本⇔江名線(県道48号線)の下蔵持を通過する途中、熊野神社の階段上り口右側にあります。 地域住民が供する道路としては、道幅が狭く屈曲しているために不利不便なので何とか改良して欲しいという長年の悲願が叶うまでの経緯と完成した記念に建てられた石碑です。
                                                      
 《昭和49年に建てられた愛郷一道の石碑》             《以下は碑の全文になります》

     愛郷一道  厚生大臣 斎藤邦吉

 我等が郷土いわき市鹿島町下蔵持は祖先の勤行により水利の便に恵まれた地味丈豊かな豊穣の地であります。たゞ字里屋より宮ノ内、小部屋作、嘉睦家を経て戸ノ内から猿田に入る線又舘ヶ岡より満屋に至る両路線は明治以来の狭隘(きょうあい)なる幅員屈曲のため地域住民の不利不便は筆舌につくせぬものがあり此が改良は父祖百年来の悲願でありました。                                                     時隅々昭和四十三年三月大字総会に於いて改良の衆議一決し万難を排し之が達成を期しました。              直に国会議員現厚生大臣斎藤邦吉先生を国会に訪ねてご支援を仰ぎ市会議員及川正枝氏同じく橋本勲氏近くは齋藤誓之介議員のお力添え添えの下に大和田いわき市長始め市会等関係各機関の協力を得て昭和四五年五月第一期工事着手以来数期に渉ってその全部をかんせいしました。                            たゞ残念なのはいわきニュータウンとの計画道路との関係で猿田への市道改良は中止の止むなきに至りました。                                                                            この数年間歴代区長の尽力は勿論大字全員一丸となって達成に努力し、入作者又心から賛同してくれました。 想えば明治からこの方父祖がやろうとして出来なかったこの難事を今私達は成し遂げたのです。又時を同じくして常磐湯本より江名港への県道も改良舗装されたので実にこの壮挙こそ郷土の夜明けであることを大喝し、この喜びを先世捧げ後昆に告げたいと思います。                                    尚碑初は小名浜町会川六郎氏の寄贈です。                                                             昭和四十九年十一月一日                                                                                               記念碑建立発起人会代表 波立徳次郎                                                                     発起人 木田三郎 志賀三之 三島五行                                                                                         志賀幹司 橋本清雄 佐藤信男                                                                                            国井正久 鈴木武夫 国井一郎                                                                                                                      国井喜久    石工 吉田稲人

 ▲裏面に寄付芳名者(41名)の記載有り。

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六地蔵尊の石碑

2018-04-10 06:56:26 | Weblog

                                              
                              分類:観                                 鹿島町を見て歩こう㊶     
                 《松久須根地区》 いわき市常磐松久須根町                                       
   六地蔵尊の石碑 
 六地蔵の石碑は、鹿島神社前の信号から道なりに進んでいき、五安の堤(ごあんのつつみ)へ向かう途中の常磐バイパス高架下付近の道端にあります。
                                     《苔むした巨岩の上に石碑がある》


 石碑の周りに5、6個の大きな硬質岩石が置かれてありますが、これは昭和46年に道路の拡張工事が行われて六地蔵の磨崖仏が取り壊されてしまった名残のものです。                                        六地蔵は像高約60センチで、松久須根駒込地内の山がせり出した場所の硬質岩に彫られていましたが惜しくも造形を失いました。                                                                 しかし、地区内の人々の拠出金によって、同年6月吉日に現在の地に六地蔵の石碑を建てました。                     《石碑のある周りの全景》       《建設委員20名が記載されている石碑》


 残念ながら地蔵そのものは1体も見ることはできませんが、石碑の台下に使用した丸型の巨石は工事中に同地から出たものを生かしています。


       《碑文》 昭和四十六年六月 吉日                                              六地蔵尊                                                松久須根町一同 建立


 

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花見頃だというのに残念

2018-04-09 06:54:16 | Weblog

                                                分類:観                                        鹿島町を見て歩こう㊵       《米田地区》   いわき市鹿島町米田字日渡                      花見頃だというのに残念                                          早合点をしてしまいました。                                                          4日(水)に矢田川附近を通った時に、土手沿いの桜が満開だったのでその時点で次の日曜日(8日)は恒例の  かしまふれ愛さくら祭り だと勝手に思い込んでしまったのです。                                                毎年、10日から15日の間の日曜日に開催されるのが通例なのですが、その前に満開の桜を観てしまったのが勘違いのもとでした。                                                                                                               《すでに花は散り始め、満開どきに比べたら5分咲き位の状態になってしまった桜》

 鹿島ショッピングセンターエブリアの北側駐車場まで足を運んでしまったついでに、ヨークベニマルへ行ってワンカップと唐揚げ、パック寿司を買ってきて 「独り花見」 をしました。                                            広くて静かな駐車場(写真下)を見つめながら、昨年のイベントや出店の並んでいる光景を思い浮かべながらのお花見でした。  ※アルコールを飲んでも車ではなく自転車ですので念のため。                                      《例年、イベント会場になる駐車場には何の変化もなし》

 結局、肝心の 「かしまふれ愛さくら祭り」 は来週の15日(日)になるのですが、残念なことに花見を堪能するのは難しく、葉桜見物ということになってしまうのでしょうか。                                                     鹿島千本桜は、鹿島地区地域振興協議会の主催でイベントを行うようになってから知名度が高まり、毎年大勢の人たちで賑わうのでそのもの自体に変化はないと思うのですが、桜の開花が今年は予想以上に早かったために、どうやら開催日のセッティングに誤差が出てしまったようです。

              

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「融和の郷」の石碑

2018-04-08 06:34:47 | Weblog

                                               分類:観                                            鹿島町を見て歩こう㊴     《久保地区》    いわき市鹿島町久保                            「融和の郷」の石碑                                       鹿島街道にある 「ラーメン山岡家」 と 「エムズアクエア」 の間にある畦道のような狭い道を約70~80メートルほど入っていくと右側に 『融和の郷』 の石碑が建っています。
 久保地区が市街化区域に指定され、関係権利者との協議による土地区画整理組合を設立、事業に着手していった過程を知ることができます。


              《公共施設の整備と宅地利用の経緯が刻まれている石碑》

  昭和62年9月に建てられたもので碑文は概ね次の通り。
 
久保地区は平市街地より8km、重要港湾小名浜より北に5kmの場所にあって、主要地方道(小名浜⇔平線)に隣接し立地条件に恵まれた地区です。都市計画法の改正により昭和45年市街化区域に指定されました。
  米田字沼田の一部を含めた施行面積約14,2ヘクタール、幹線道路の整備をはじめ、公園、公共下水道、上水道等の公共施設の整備を図り、快適な住宅環境の市街地が形成されました。 

                                                                     《石碑の全景》

 昭和56年6月に知事の認可を受けた後、鹿島町久保土地区画整理組合を設立して事業に着手、7年の歳月を費やし、総事業費4億9千800万円を投じ完成しました……。というもので、昭和62年吉日の年号と、篆書・いわき市長中田武雄、撰文・鹿島町久保土地区画整理組合長鈴木巌、その他役員(理事長、副理事長、理事、監事名)などが列記されています。

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十九夜講と安産祈願

2018-04-07 06:54:57 | Weblog

                             分類:観                                      鹿島町を見て歩こう㊳    
               《いわき市鹿島町及び常磐三沢町・常磐松久須根町》      
      十九夜講と安産祈願

 十九夜講は、毎月19日の夜に輪番制で決まった家(又はお寺)に集まり、安産や延命などを祈願する伝統的な行司で各部落ごとに行われていました。 これを親しみを込めて人々は 「十九夜さま」 と呼んでいましたが、現在継続している地域は少なくなってしまいました。               
                                      
    安産と子供たちの成長を願って数珠を繰る女性たち=走熊》写真は「いわき歳時記」から                  

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天明飢饉の墓石と塔婆

2018-04-06 06:45:26 | Weblog

                                                 分類:観
   鹿島町を見て歩こう㊲      《御代地区》   いわき市鹿島町御代字柿境                         天明飢饉の墓石と塔婆   
   鹿島街道を小名浜方面へ向かい、船戸の信号を通過して約50メートルほど行くと 左に入っていく細い道がありますが、そこが旧道です。 そこから20メートル先、山側に2基の墓石が並んでいます。 
 注目すべきは墓石に天明3年と刻まれている痛ましい文字です。                   
                                                                  《天明の飢饉で亡くなった人の墓石》

 いわき地方を飢饉が襲ったのは過去に何度かありますが、鹿島町に天明の飢饉で亡くなった人の墓石が畑の片隅にひっそりとあるのは意外と知られていません。
 天明飢饉(1781~1789)は、有史以来の大量死を記録した飢饉で、長期間に亘って全国で天候の不順や天変地異が続きました。人々の間ではこの世の終わりかと騒ぎ立てるほどでした。
 特に東北地方では冷害で壊滅的被害を受け、おびただしい餓死者を出しました。天明3年(1783)には浅間山が大爆発を起こし、東北地方の冷害に追い打ちをかけ大凶作に拍車をかけたのでした。

                           《塔婆の文字が全てを物語っている》   《旧道に入って車のある所を左に入る》

 墓石の裏側に置かれてあった塔婆を見て唖然としました。数年前に供養が行われたのでしょうが、塔婆に書かれた文字が当時の悲惨さを今に伝えていたので 、そのうちの3枚を列記してみるとこうです。

 咽喉広大飲食充満  恐怖悉除離餓鬼趣  唯身土己心弥陀 

 磐城地方で記録に残っている飢饉は、寛延・天明・天保の時代で、冷害と疫病に悩まされ庶民の中には 「間引き」 といって食べ物が尽きた家では、幼児を殺すしかない状況に追い込まれたところさえあったようです。 ●間引き=口減らし            

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戊辰戦で平城を攻めた川

2018-04-05 07:08:35 | Weblog

                                            分類:観                                                         鹿島町を見て歩こう㊱      《鹿島全域》                                                                 戊辰戦で密かに進攻した川                                                             慶応4年1月(1868)、鳥羽・伏見の戦いから端を発した戊辰戦争は、西軍(新政府)の勢い止まるところを知らず、次第に江戸から東北地方へ向けて攻勢を強めてきました。
 同年6月16日(火)には
 早くも茨城県の平潟港に上陸し各地で戦闘が始まり、磐城平城は7月13日(月)に3日間の激闘の末、落城してしまいました。                                                                                                                                             《西軍が身を隠すようにして進攻してきた矢田川》

 鹿島の走熊台場を攻める時には、前を流れる矢田川の中 (写真上) を進んだ軍と、湯本・下船尾から三沢・米田を経て台場の背後に迫った軍があります。
 それには地形、地理に詳しい者を味方に付けなければ奏功作戦は到底無理です。ところが地方在住者に西軍参謀の堀直太郎と関係を持った若松鉄五郎、誠三郎がいました。若松鉄五郎父子は西軍をいかに平城まで導くかを模索した結果、相手の軍に察知されないで攻めていく方法として、矢田川の土手下を通ることを進言したのでした。                                                                                                     

                
《蔵福寺の墓地にある無名兵士5名の供養塔》

 奇襲作戦は成功して7月10日に、台場を据えた七本松(走熊)の戦いでは、仙台・平藩の兵は敗走、次いで華ノ木公園(鹿島神社隣り)、軍事山(平と鹿島の境界)の台場も堕ちて、13日には平城が総攻撃の憂き目に遇いました。
 
     
華ノ木公園にある砲台跡地の石碑》      《民家の裏で絶命した兵士の供養塔》

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湯本への架け橋⇒三和橋

2018-04-04 06:53:16 | Weblog

                                                 分類:観                                                         鹿島町を見て歩こう㉟     《走熊地区》   いわき市鹿島町走熊字小和口                                                                   湯本への架け橋⇒三和橋                                                              江名港・湯本線(県道48号線)が直通になるまでは、鹿島公民館とファミリーマート(コンビニ)がある信号のところはT字路になっていました。
 そのため、米田・三沢・湯本方面へ行くには右折をして三和橋(写真)を渡っていく以外にありませんでした。いまレストラン 「もりの木」 と葬祭場 「せきの」 がある通りです。                                                         
           
《昭和7年に完成して渡り初めを行った時の記念写真》   

 三和橋は矢田川に架けられた橋で当時、鹿島(村)の地域住民にとっては無くてはならない重要な橋でした。主要地方道「いわき・古道線」(旧・鹿島街道)からの支線になっていて、湯本へ抜けていく唯一の道路だったからです。                                                             《同じ位置から現在の三和橋を見る》  

 ▲この橋は、昭和54年に架け替えられたものですが、同年3月に矢田川改修工事で、橋から100
   メートルほど離れた下流で川底から山羊(ヤギ)の骨盤が発掘されました。
    今から200年前後のもので、文化・文政・天保の時代だったようです=生物学者、古内栄一氏。    

       

     

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寄進された金剛力士像

2018-04-03 06:56:55 | Weblog

                                                  分類:観                                                            鹿島町を見て歩こう㉞    《下矢田地区》  いわき市鹿島町下矢田字大作
                                           杉社山真浄院                               
                                     檀家が寄進した金剛力士像                                                                 杉社山(すぎやしろざん)真浄院の山門入口に金剛力士像があります=写真。
 「阿」 と 「吽」 を表した2体で、この金剛力士像建立の経緯を記した石碑が像の脇にあります。
                                                            
                  
《門前に一際目立つ金剛力士(仁王)像》

  ここに奉る金剛力士像は、平成3年に同地区に住む檀家夫妻が 「金婚式記念」 に建立したもので、像の正面左側にその経緯を記した石碑もあります=写真下右
 末文で開眼導師(同寺兼務住職)がこの功徳をもって、仏法を護持し、全世界の永久平和を心から願うと締めています。

    
        
《真言宗智山派 真浄院 入口》        《功徳主夫妻の碑》

 【金剛力士】 金剛力士はインドの梵語でヴアジエラ・バーニと呼ばれ、日本では仁王様とし
          て親しまれています。
          インドにおいて門の両脇に武器を持った薬叉を置いて精舎を守護していたこ
          とから仏法を守護する誓いを持った守護神として、お寺の門前で安置される                         ようになりました。
          口を開いているのが「阿」で、ぐっと口を結んでいるのが「吽」の像です。
          密教では「阿」は全てが生じる心の源、「吽」はそれらが帰着する智徳を意味                       しており全ての始めと終わりを象徴しています。
 

 

                  

 

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払い下げられた平城の門

2018-04-02 06:46:55 | Weblog

                                            分類:観                                               鹿島町を見て歩こう㉝     《御代地区》   いわき市鹿島町御代                                  払い下げられた平城の門                                                今から150年前の慶応4年(1868)に起きた戊辰の役で、磐城平城はその殆んどが焼失し、明治4年の廃藩置県の際に城跡の全てが民間に払い下げられました。                            その時に、鹿島村(当時)では御代の旧家2軒が門を購入して家の前に据え付けました。                                                                                                                                                          《八代家の門》

 門はいずれも見るからに重厚で、歴史を思わせる貫録のある門です。            
  八代邸は 「御代の大仏」 の近くにありますが、公道から私道に入るので、直接見学するのは控えて予めアポ(見学時間の約束)を取っておくことが大事かと思います。

                                                                               佐原家の門》

 佐原邸は旧・鹿島街道の通りに面しているので誰もが簡単に見ることができます。
   佐原邸は明治初期頃までは養蚕業と質屋を閉業しており、明治9年からは酒造業を営むようになりました。昭和30年代まで続いて、銘酒「御代の鶴」や「みちのく」を販売していたので、ある程度年輩の方なら記憶にあると思います。
 また、この家からは鹿島村(当時)の初代村長を務めた佐原久次郎や、明治32年9月に若干32歳で福島県議会議員に当選した佐原久道(久次郎の長男)が出て
います。 
       

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三島家のキンモクセイ

2018-04-01 06:13:53 | Weblog

                                               分類:観                                                      鹿島町を見て歩こう㉜      《下蔵持地区》  いわき市鹿島町下蔵持戸ノ内                                                                         三島家の金木犀                                            写真では見えませんが石垣の脇に細い川が流れていて、その隣にあるパイプ柵の左側に江名港⇔湯本線(県道48号線)が走っています。                                                    毎年10月の季節を迎えると、この辺り一帯に甘い香りが漂ってきますが、それが三島家の金木犀(キンモクセイ)であるのは有名です。                                                                                                                                                              《江名港⇔湯本線(県道48号線)から塀越しに見えるキンモクセイの大木》

 標高4メートル、横幅3,5メートル、直径40センチで三枝に分かれていて、約200年前から三島家の宝物として大事にされています。                                                                                   花が咲く季節になると木の上から下まで、びっしりとオレンジ色の見事な花を付ける姿は壮観です。

       

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