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いわき鹿島の極楽蜻蛉庵

いわき市鹿島町の歴史と情報。
それに周辺の話題。
時折、プライベートも少々。

いわき市鹿島町を歩こう62

2015-09-15 06:50:45 | Weblog
                                            分類 : 歴
 いわき市鹿島町を歩こう    62
       トベタナ         所在地 : いわき市鹿島町走熊字小和口

 トベタナは塩、たばこ、駄菓子を売っていた店で、写真下の人が立っている道を左へ行くと米田・三沢地区を経由して湯本へ出る重要な道でした。
 いまは7本松の信号から直進できる江名⇔湯本線(県道48号)が開通して便利になったが、かつては七本松の道はT字路だったので米田・三沢・湯本方面へ行くのには必ずこの道を通らなければならなかったのです。


              《子供の頃、トベタナのこの辺りでよく遊んだ記憶が甦る》

 トベタナという店は看板が揚がっている訳でもなく、親も村の人も「トベタナ」「トベタナ」で通っていました。そうなると不思議がったり、疑念を抱いたりする必要はないのです。社会通念上、それで通用するからです。
 しかし、私はその意味を知りたかった。同級生に聞いたら 「トベタナはトベタナだっぺ」 と軽く一蹴されてしまいました。どうやら相手も意味は分かっていないのです。
 気になって仕方がなくなったので直接、店に行ってアメ玉1個を買いながら店の小母さんから聞き出しました。
 小母さんの顔には何の表情も動かなかったが、立ち掛けに膝を戻してもう一度私の顔を見ると笑顔になって話してくれました。
「本当はウチの店は小野商店というんだけどもな、爺ちゃんの名前が藤兵衛だから皆が藤兵衛の店(たな)と言うようになって、トウベエタナからトベタナになったんだよ」優しい声だった。
 いつも心の中にあった疑問が解けて、スッキリとした瞬間でした。 納得。


              《トベタナがあった場所で、その奥に見える建物はモーテル》

 突き当りのブロック塀の中が例のトベタナがあった場所で、現在では畑になっています。
 写真の手前から右の道が旧鹿島街道で平方面になります。


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いわき市鹿島町を歩こう61

2015-09-14 06:46:58 | Weblog

                              分類 : 歴
 いわき市鹿島町を歩こう 61


    境内がギンナンで埋まる白山神社                               鎮座地 : いわき市鹿島町上蔵持字滝浪9
   白山神社(旧村社)
   祭神 白山比命(しらやまひめのみこと) 一名、菊理媛命(くくりひめのみこと)

 延暦23年(804)正月、坂上田村麻呂将軍が蝦夷征討下向の節、村中安全の守護の神として勧請(かんじょう)す。と、棟札に記載があります。弘仁2年(811)一村の鎮守の神として奉祀され、明治12年(1879)村社に列せられました。
 また、同社には船魂(ふなだま)神社が相殿として合祀されているが、これは弘仁2年4月八日、江名浜より綿津見神(わたつみのかみ・海を司る神)を、千旗を立てて船主・船中一同にて奉斎したもの。



高台の静寂な社に佇むと、古の住人たちが純真な心で神仏を崇高していたことに思いを馳せる。

                 《白山神社上り口の鳥居


           《境内一面にばら撒かれたように落ちたギンナン

 写真で見ることができるギンナンの範囲は銀杏の大木の片側だけですから、いかに多く落ちているかが推測できると思います。

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いわき市鹿島町を歩こう60

2015-09-13 06:41:58 | Weblog
                                            分類 : 歴
 いわき市鹿島町を歩こう    60
   二つある「鹿島小学校発祥の地」の石碑   
                    ① いわき市鹿島町久保 (金光寺の境内)
                    ② いわき市常磐上矢田町( 鹿島神社の鳥居附近)

 現在の鹿島町は、明治22年以前まで12の村がそれぞれ独立していたので教育施設も数か所に分かれていました。
 明治6年に小学校が義務教育として発足し同年、久保村の金光寺に啓蒙小学校、上矢田村神宮寺に成徳小学校が設置されました。校名の 「啓蒙」 や 「成徳」 は、中国の古典からとって名付けられています。
▲「鹿島小学校発祥の地」 の二つを比較すると、石の材質・程度・大きさ・書体などが同じなので、同
  時期に作られ設置されたものと推察できます。


                             ①

 それまでは、一般庶民の教育は 「寺子屋」 で行われ、師匠となる人は僧侶が最も多く、次いで武士や神官でした。
 しかし、小学校は出来たとはいっても実情は財政上の問題から校舎を新築する程の余裕がなかったために、暫くの間は寺子屋や塾などを改造、依存していたようです。


                             ②

 その後、双方の学校は校名を変えたり、移転したりと幾多の変遷を経て昭和9年10月に走熊字中島1番地に木造平屋建て瓦葺き校舎が造られました。
 昭和54年、同地に待望の鉄筋コンクリート3階建て新築校舎が完成しました。
 そして平成27年(2015)のいま、鹿島小学校は創立142年目になります。


〈関連記事〉いわき市鹿島町を歩こう 46 (2015・8・30付)
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いわき市鹿島町を歩こう59

2015-09-12 06:57:09 | Weblog

                                            分類 : 歴
 いわき市鹿島町を歩こう    59
     鹿島公民館        所在地 : いわき市鹿島町走熊字鬼越83-1

 鹿島には12の地区 (明治22年までは、それぞれが村として存在した) があったが昭和29年3月、上矢田・松久須根・三沢の3地区が小名浜町から離脱して湯本町と合併し、他の9地区は小名浜町として残りました。

                        《現在の鹿島公民館》

 江名⇔湯本線(県道48号)の道路沿いにある鹿島公民館(写真)は、昭和56年に建てられた鉄筋コンクリート2階建てで、地域住民の融和を図るための交流や、各種の要望に対応する事業を次々に取り入れて、存在の重要性を示しています。

 鹿島は当時の小名浜町と湯本町との行政に分割された訳ですから、公民館も小名浜の南公民館、湯本の北公民館に分かれました。
 常磐3地区は湯本町役場が遠いために行政業務を行う窓口が必要となり、鹿島出張所が設置され、これに鹿島北公民館が併設されたのです。


                   《鹿島小学校の一角にあった南公民館》

 鹿島村に公民館が設けられたのは社会教育法が施行された直後で、この頃は鹿島村役場内に形式的にあったのみで、主として関係機関や団体との連絡調整に当たる程度で、特別な施設や専任職員の配置などはありませんでした。
 昭和30年、鹿島小学校に初めて施設として公民館が設けられ、昭和32年に同小学校に講堂が新築されたのと同時に公民館も独立した施設として新築されました。


                     《上矢田にあった北公民館》

 昭和39年、やはり鹿島小学校の敷地内ではありますが、鹿島南公民館が建設されました。昭和41年に旧13市町村が大同合併して、いわき市誕生となりますが鹿島南公民館として継続維持してきました。
 

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いわき市鹿島町を歩こう58

2015-09-11 06:56:01 | Weblog
                               分類 : 歴
 いわき市鹿島町を歩こう  58
   二宮尊徳翁百年祭慰霊塔                           
                           場所:いわき市鹿島町上蔵持

 平成23年(2011)3月11日の東日本大震災では、鹿島の各地区でも大きな被害を受けました。
 道路の罅(ひび)割れ、隆起、水道断水。 民家の屋根瓦に至っては殆んどの家で崩れ落ちてブルーシートで覆ったままの生活が続いたものです。
 上蔵持のシンボルでもあった二宮尊徳翁百年祭慰霊塔(写真)も地震の衝撃に耐えかねて崩壊し、60年の歴史に幕を閉じたのでした。 


             天に向かって勇壮としていた頃の慰霊塔

 江名⇔湯本線(県道48号)の上蔵持を通過しようとすると、正福院(この寺も洋風の白い寺院で目立つが)の境内に威風堂々と聳(そび)え立っていたのがこの慰霊塔でした。
 昭和30年(2018)に志賀直哉(鹿島村当時の16・17代村長)が、福島県知事はじめ地方有志の協賛を得て建立されました。塔の題字は福島県知事大竹作摩の筆跡になるものです。総工費28万円を掛けて、昭和30年10月20日に除幕式が行われました。


 《慰霊塔(左側)と蓮光寺(白い建物)を比較すると、どの位の大きさだったかが窺える

 村政執行の姿勢に報徳仕法を取り入れて、「一圓融合」を旗印に村民の融和を基調として、村政の再興を期した志賀村政は幾多の優れた事績を後世に残しました。
 ▲一圓融合については、当ブログの NO:19 を参照してください。



             《慰霊塔は跡形もなくなってしまった=半鐘の左側
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いわき市鹿島町を歩こう57

2015-09-10 09:02:18 | Weblog
                                            分類 : 歴
 いわき市鹿島町を歩こう    57
    船戸の八合横穴群         所在地:いわき市鹿島町船戸字八合

 船戸地区にある八合横穴群は、昭和50年頃に50基くらいとされていましたが、草木や雑木に覆われてしまった現在では、民家の裏山に存在するという事だけが分かっていて外観上からは1基も見ることは出来ません。
 考古学者の説では学術調査をすれば、その3倍の150基は確実に姿を現すといわれています。


                     《八合横穴群が山肌に露出していた頃》

 横穴墓は、古墳時代後半(5世紀終わりの頃)から奈良時代頃までに作られたお墓で、古墳時代後半は古墳の被葬者が下位階層まで広まる時代で、古墳の小型化、群衆化が見られます。
 そのような状況下で人口の墳丘に埋葬施設を設ける古墳とは異なり、崖など自然の斜面を横穴状に掘って埋葬施設とする新たな形のお墓として横穴墓が誕生しました。


             《同じような位置から撮ったものだが、これでは誰も分からない》

 鹿島でこの時代に作られたものは 「船戸の八合横穴群」 の他に、 「久保の大玉横穴」 「御代の合曹子横穴」 「九反田横穴群」 があります。
▲「柿境横穴群」 は昭和54年に砂質土を埋め立て用に使用するために削り取られ、横穴は破滅してしまいました。
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いわき市鹿島町を歩こう56

2015-09-09 12:23:00 | Weblog
                              分類 : 歴
 いわき市鹿島町を歩こう  56
                       場所 : いわき市鹿島町久保字於振
  久保の郷倉跡地 
 郷倉(ごうくら)江戸時代、年貢米の保管や凶作に備える貯穀のため、郷村に設置された共同穀
倉。 (広辞苑)

 昭和54年6月まで、市立鹿島保育所前の道路に郷倉がありました=写真。

       《旧、鹿島街道から久保字内へ入る二俣の所にあった郷倉

 倉にあった長持ちの中から中型段ボール4個分の書類や道具類が見つかり、その中に久保部落では昔、奴行列が行われていたという証拠の古文書が発見されました。
 ところが残念なことに、解体に当たって長持ちや他の物品は大型で置き場所がないとの理由で焼却されてしまったのです。
 長持ちに被せてあったものには5つの 「下り藤」 の紋所が付いていました。これは湯長谷藩主、内藤家を表しているものです。 註 ・ 同じ内藤家でも平藩主は 「上り藤」 。


         《今はゴミ集積場になっているが郷倉はこの辺りにあった

 明治12年、久保村行列帳目録記入消防組」 と表紙書きされた一冊で、内容は奴行列に関わる役名と氏名、人数が列記されており、行列帳と日付が同じ 「諸入用調帳」 によると、他村からのご祝儀も受けています。
 上荒川村(平)や上神白(小名浜)部落の人たちの名もあるので、当時の久保村の奴行列は近郷近在では名が通っていたものと推察できます。


郷倉があった場所から見て左が金光寺方面、右が旧・鹿島街道で船戸方面へ抜ける道

 現在の鹿島町は明治22年以前まで12村あったが、その内の3村上蔵持・下蔵持・久保は湯長谷藩に属し、あとの9村は平藩と幕府直轄の小名浜代官所に分かれていました。
 そうなると、渡辺町釜戸の奴行列や山田町に伝わる奴行列とも何らかの関連性が出てくるのかも知れません。


 因みに、湯長谷城があった場所は、いわき市常磐下湯長谷(現・岩崎中学校)で、江戸を通して湯長谷藩を治めた内藤家の館です。
 磐城平藩主、内藤忠興が寛文10年(1670)12月に隠居した時、次男遠山主殿頭政亮は分家し、磐崎・菊田二郡のうち、新田一万石を分け与えられ湯本に居住したが、後に湯長谷に移りました。
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いわき市鹿島町を歩こう55

2015-09-08 07:05:59 | Weblog
                                            分類 : 歴
 いわき市鹿島町を歩こう    55
      金光寺 (こんこうじ)           所在地 : いわき市鹿島町久保字西ノ作71

    養照山寶蔵院 金光寺
              本尊 聖観世音菩薩 (木造立像三尺)
              創立 大同元年 (西暦806年)
              住職 箱崎亮弘師 (当山96世)
              檀家 久保・船戸・その他鹿島地域


 元禄年間までは、寺名を長福寺 (元禄16年の過去帳まで) と呼び修行僧もいて石城(磐城)三福寺の一つに数えられて栄えました。
 その後、寺名を金光寺 (天保11年の過去帳に記載有り) に変わりました。


                          《本堂正面》

明治初期には啓蒙小学校 (後に久保小学校と改称) を仮設し、明治13年に下蔵持に小学校が新築され、それに伴う移転が行われて金光寺の教育現場としての歴史は閉じました。

                           《境内》

 境内には磐城三十三所観世音の十六番札所、久保中山観音が祀られ、本堂御本尊聖観音と共に 「観音様のお寺」 として厚い信仰を受けています。
 ▲磐城三十三所観世音十六番札所については、当ブログの №7 参照。


                     《金光寺の裏山にある久保横穴墓群》

 古墳時代後期の500年から600年にかけて作られたものですが、現在ではこの横穴墓の一部を利用して、両墓制 (又は参り墓) という古い信仰のかたちを保っています。
 久保横穴墓群は同じ鹿島町御代の九反田横穴墓群と共に藤原川流域に属し、約20~30基の横穴が傾斜面に作られていますが樹木の根や土砂などに埋もれ、その一部しか確認されていません。




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いわき市鹿島町を歩こう54

2015-09-07 07:12:21 | Weblog
                                            分類 : 歴
 いわき市鹿島町を歩こう    54
     なごん坂         所在地 : いわき市鹿島町走熊字山ノ神

 写真(下)の手前が旧、鹿島街道になっており、中央のV字型になった部分が 「なごん坂」 の頂上辺りになります。
 雑木が伐採されて周囲が明るくなっていますが、以前は昼間でも薄気味悪い山道でした。
 この奥に走熊 (はしりくま) の一部地域があり、昔、11軒の農家が存在しました。
 反対側の上り口から見ると、まだ鬱蒼とした雑木や竹に覆われていて往時の面影を残しています。


                  《旧、鹿島街道へ出てくるところのなごん坂

 の細道から県道(旧、鹿島街道)へ出てくる近道で、段差のある切り通しになっています。
 道幅が狭くて岩肌に触れるとボロボロと砂が落ちるが、の人たちにとっては先祖代々からこの坂は思い入れの深い坂道だったのです。 ▲その理由(わけ)と、坂の名が付いた由来とは?!


                《密林のような鬱蒼たるなごん坂の頂上付近》

 昔、戦いで出兵する者、他のへ嫁に出て行く娘、他国へ働きに出掛けて行く息子など、この坂道で辛くて悲しい別れをしなければならない最後の場所だったからです。
 「名残惜しい坂」 から 「名残坂」 になり、長い間にいつの間にか 「なごん坂」 に変化しました。


            《現在の東側から上っていく場所の入口。直進がなごん坂

※鹿島には古くから呼ばれている 「くうじ山」 が実際には 「軍事山」 だったり、「さん田」 が 「猿田」 であったりするが、呼び名の語源を誤ると文字に起こした時に意味が全く異なる当て字になってしまう危険性があるのをブログ作成中に気付かされました。
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いわき市鹿島町を歩こう53

2015-09-06 06:45:55 | Weblog
                                            分類:歴
 いわき市鹿島町を歩こう    53
矢田川の千本桜   所在地 : いわき市鹿島町(鹿島ショッピングセンター付近の土手一帯)

 写真は江名⇔湯本線(県道48号)近くで撮った矢田川の千本桜です。
 矢田川は鹿島街道に並行して流れている川ですが、春が来てお花見の季節になると鹿島ショッピングセンター北駐車場では大きなイベントが行われ、周辺に賑わいを見せます。
 いまや、鹿島は桜の名所としても名の知れた人気のスポットになりました。


                《毎年、矢田川の土手沿いに見事に咲く千本桜》

 恒例の かしま ふれ愛 さくら祭り は、鹿島地区地域振興協議会が主催し、地域住民のボランティアによって運営されているもので、毎年4月の初旬(土・日)に華々しく開催されます。
 
  《桜の花を愛でながら木の下で休んでいく人が多くなる》

 鹿島の素晴らしい景観の象徴として鹿島の名所になっています。
 これは鹿島地域全体の活性化に繋がる願いが込められて 「」 「躍動」 「ふれあいのまち」 の方策の一環として花開いたものです。

                
                  《満開の頃を迎えると、さくら祭りのイベントがある》

                          
                            《藤原川と合流間近の矢田川は、こうして流れていく》
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いわき市鹿島町を歩こう52

2015-09-05 06:59:45 | Weblog
                                            分類 : 歴
 いわき市鹿島町を歩こう    52
    御代の八坂神社 (旧小社)     鎮座地 : いわき市鹿島町御代字赤坂32-3

   祭神 素戔嗚尊(すさのおのみこと)
      ※いざなぎのみこと・いざなみのみことの御子にして、天照大神の弟にあたる。性凶暴で天
       の岩屋戸の変を起こしたが、八岐大蛇を斬って天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)を得、
       それを天照大神に献じた。
   相殿神 熊野速玉神。倉稲魂神。歳徳神。
   境内末社 若木神社


                  《御代坂の上がり口附近にある八坂神社》

 神社の左隣は昭和40年頃まで、「御代の鶴」 や 「みちのく」 という銘柄の清酒を造っていた酒蔵で、佐原家の旧家です。
 右隣には自動車流通センターJRCグループ本部になっています。
 急傾斜の石段を、今は使われていない旧酒蔵だった赤レンガ造りの煙突を横目にして上ると本殿に辿り着きます。


                  《108の石段を上ったところに本殿がある》

 御代地域の人々が、いわき市内郷御台境町に鎮座する一ノ矢天王(八坂神社)を深く尊崇していたため、その願望に応えるために明治11年(1878)、この地へ小祠を建て御分霊御遷宮したことに始まるとされています。
 御代に古くから開山の臨済宗光西寺の山は、昔は熊野山と称し熊野大神を祀っていましたが、八坂神社の鎮座に伴い、熊野神社は八坂神社へ合祀されました。
 大正7年旧6月4日に拝殿及び幣殿を新築し、昭和27年3月31日には本殿を再新築して拝殿・幣殿の屋根を瓦に葺き替えました。


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いわき市鹿島町を歩こう51

2015-09-04 06:54:49 | Weblog
                                            分類 : 歴
いわき市鹿島町を歩こう    51
     ハニーズの本社         所在地 : いわき市鹿島町走熊字七本松

 東証1部に上場されている、女性向けのカジュアル衣料チェーン 「ハニーズ」 の本社は鹿島町にあります。 (江名⇔常磐線(県道48号)の鹿島公民館向かい) (鹿島街道の小神山交差点の近く)

                    《躍進する(株)ハニーズの本社》

 平成15年12月に上場されて以来、僅か1年4ヶ月で東証1部へ上場を果たしたのは異例ともいえるスピードで、これは事業実績の強さを如実に物語っている証拠です。
 「女性向けのカジュアル衣料業界でリーダーシップを発揮していきたい」という江尻義久社長(68)の一貫した決意のもとに、平成20年(2008)には創業30周年を迎え、その時点で全国に900店舗を展開してきました。

                《本社と駐車場の真ん中を県道48号線が走っている》

 躍進する 「ハニーズ」 の勢いは更なる発展に向けて、日本経済の起爆剤になっています。 
 その発信地が 「鹿島」 でもあるし、地理上からいっても鹿島は平・内郷・湯本・泉・小名浜・江名・豊間の中心 (▲へその部分) に位置している所から、地元商店街では 「ネーブルシティー鹿島」 と名付けて地域活性化のために頑張っています。


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いわき市鹿島町を歩こう50

2015-09-03 07:09:37 | Weblog
                                            分類 : 歴
 いわき市鹿島町を歩こう    50
    鹿島を見渡せる福正院       所在地 : いわき市鹿島町走熊字坪下28

 天徳山蔵福寺福正院  宗派 高野山真言宗
                 本尊 大日如来
                 住職 永崎亮賢 遍照院(住吉)兼務
                 檀家 38世帯


                  《平成2年に建て替えられた福正院の遠景》

 往古の記録を失っているので、開山についての詳細は不明ですが遍照院保存の過去帳からすると、宝永5年(1708)10月28日に法印賢秀が入寂している記があり、それ以前法印賢秀大4位の記から1700年以前に開山されていることは推定できます。
 法印禅東が15世の住職となり、山号を鬼渡山(きわたりさん)と称して客殿を新造立しました。禅東は植田の東光院、及び長孫の長宗寺にも転住して住職になっています。
 第16世の寿栄は宝暦3年(1753)に湯本の勝行院に転住したという記録が残っています。


    《しまむら(店舗の裏側)や wonderGOOも見える。遠景の高台は米田の鹿島台団地》


           《鹿島小学校・ヨークベニマルエブリア店、遠く住吉方面まで見渡せる》

 福正院は昭和4年(1929)の走熊大火の難を逃れた古寺ですが、雨漏れがしたり戸袋の板が捲れたりして老朽化が激しくなってきたために、檀家からの寄附により平成2年8月に新しく建て替えられました。建立に当たっては、白水の阿弥陀堂(内郷)をモデルにしたといわれています。

 福正院は高台にあるため、境内から見える眺めは素晴らしく、遠く飯田や住吉まで一望できるし近くは、かしま幼稚園や鹿島小学校、そして鹿島ショッピングセンターエブリア・ヨークベニマルエブリア店などが迫って見えます。



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いわき市鹿島町を歩こう49

2015-09-02 06:48:41 | Weblog
                                            分類 : 歴
 いわき市鹿島町を歩こう
    二宮金次郎像         所在地 : 鹿島小学校 (いわき市鹿島町走熊字中島1)

 旧校舎(木造1階建て)の職員室玄関前にはシュロの木12本を円形に植え、その中央部に二宮金次郎(少年期)の像が建っていました。
 シュロの木、12本は当時の村内12大字を表し、円形に植栽したのは村内一圓融合の姿を象徴したもので、昭和9年に村長に就任した志賀直哉の発想で、その翌年に各字がシュロの木を1本ずつ提供して植えられたものです。
 昭和10年は 「鹿島村立鹿島小学校」 の新築落成と重なるので記念に造られました。


               《12本のシュロの木に囲まれていた頃の二宮金次郎像》

 二宮金次郎は江戸後期の実践的農政家、二宮尊徳(1789~1856)の幼名で、孝行・勤勉・学問・自営という4つの徳目を代表する人物として有名ですが、日本が14年戦争に突入したとされる昭和7、8年(1932~1933)頃から、その徳目を皇国意識と国威発揚の目的にされ、全国の小学校に「二宮金次郎像」が建立されていく大きな要因があったとされています。

                  《学童教室の前に移った現在の二宮金次郎像》

この金次郎像は全国統一されていたものではなく、顔の表情・着衣・スタイル・前に出ている足(右か左か)などが学校によってそれぞれ違います。



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いわき市鹿島町を歩こう48

2015-09-01 19:02:25 | Weblog
                              分類 : 歴
  いわき市鹿島町を歩こう  48

従軍馬慰霊塔   所在地 : 鹿島公民館 敷地内 (いわき市鹿島町走熊字鬼越)

 明治・大正・昭和の中頃まで営農に欠かせなかった馬は、農家の財産の半分に相当すると云われるほど大事に扱われてきました。
 鹿島村当時(明治42年)の馬匹数は139頭で、その内訳は牝124頭、牡15頭だったという調査記録があります。
 
 昭和12年(1937)から昭和20年(1945)の間に、日本と中国大陸の大部分を支配下においていた中華民国政権との間で行われた支那事変では、農家の馬も軍馬として徴用されたり買い上げられたりしました。 ▲通称 「日中戦争」 ともいいますが、当時の日本政府(大日本帝国)が定めた正式名称は「支那事変」としての公称なので、支那事変の記述としました。
 支那大陸の戦戦では軍馬が従軍していく数が増していき、徴用された家では新たに馬を買い求めると再び徴用されるという状況が続きました。
 従って、鹿島村全体で一体何頭の馬が従軍したのかは結果的に把握できていないようです。


        《丸山公園上り口(現・鹿島公民館敷地)にあった従軍馬慰霊塔

 昭和14年3月10日、鹿島小学校前にあった小高い山の丸山公園(現在では削り取られて平地になり、鹿島公民館が建っている)の上り口に、村の扶助受給者一同と国防後援会で造立した 「従軍馬慰霊塔=写真」 が置かれていました。

         《軍用供補馬の鍛錬会》 於・御代坂(昭和13年3月
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