いわき鹿島の極楽蜻蛉庵

いわき市鹿島町の歴史と情報。
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いわき市鹿島町を歩こう56

2015-09-09 12:23:00 | Weblog
                              分類 : 歴
 いわき市鹿島町を歩こう  56
                       場所 : いわき市鹿島町久保字於振
  久保の郷倉跡地 
 郷倉(ごうくら)江戸時代、年貢米の保管や凶作に備える貯穀のため、郷村に設置された共同穀
倉。 (広辞苑)

 昭和54年6月まで、市立鹿島保育所前の道路に郷倉がありました=写真。

       《旧、鹿島街道から久保字内へ入る二俣の所にあった郷倉

 倉にあった長持ちの中から中型段ボール4個分の書類や道具類が見つかり、その中に久保部落では昔、奴行列が行われていたという証拠の古文書が発見されました。
 ところが残念なことに、解体に当たって長持ちや他の物品は大型で置き場所がないとの理由で焼却されてしまったのです。
 長持ちに被せてあったものには5つの 「下り藤」 の紋所が付いていました。これは湯長谷藩主、内藤家を表しているものです。 註 ・ 同じ内藤家でも平藩主は 「上り藤」 。


         《今はゴミ集積場になっているが郷倉はこの辺りにあった

 明治12年、久保村行列帳目録記入消防組」 と表紙書きされた一冊で、内容は奴行列に関わる役名と氏名、人数が列記されており、行列帳と日付が同じ 「諸入用調帳」 によると、他村からのご祝儀も受けています。
 上荒川村(平)や上神白(小名浜)部落の人たちの名もあるので、当時の久保村の奴行列は近郷近在では名が通っていたものと推察できます。


郷倉があった場所から見て左が金光寺方面、右が旧・鹿島街道で船戸方面へ抜ける道

 現在の鹿島町は明治22年以前まで12村あったが、その内の3村上蔵持・下蔵持・久保は湯長谷藩に属し、あとの9村は平藩と幕府直轄の小名浜代官所に分かれていました。
 そうなると、渡辺町釜戸の奴行列や山田町に伝わる奴行列とも何らかの関連性が出てくるのかも知れません。


 因みに、湯長谷城があった場所は、いわき市常磐下湯長谷(現・岩崎中学校)で、江戸を通して湯長谷藩を治めた内藤家の館です。
 磐城平藩主、内藤忠興が寛文10年(1670)12月に隠居した時、次男遠山主殿頭政亮は分家し、磐崎・菊田二郡のうち、新田一万石を分け与えられ湯本に居住したが、後に湯長谷に移りました。
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