分類 : 地
いわき市鹿島町を歩こう 73
矢田川の治衛門堰(せき)跡 場所 : いわき市鹿島町久保1
矢田川と蔵持川が合流した地点から約100メートルほど下流へ行った所に、かつて治衛門堰と呼ばれていた堰場がありました=写真。
推定で樹齢300年は経っていると思われる1本の黒松が土手に生えており、まるでそれが堰の目印のようでした。昭和53年に河川工事に支障が出て伐り倒されてしまい、堰自体も姿を消しました。
その堰が存在していたという事実を、上下写真で比較してみると唯一手掛かりになるのは遠方の三角形をした山(走熊地区の高寺山)の位置で確認できます。下の写真では分かり難いかと思いますが中央部分に僅かに三角形をした山が見えるのがそうです。
《昭和27年、コンクリ-ト造りになった当時の治衛門堰》
久保邨(村)は昔から天然水が不足して、所有耕地が常に水不足に悩み、水田が作付け不能になる事がしばしばありました。
30数町歩(約9,000坪)の耕地が水不足のために田植も出来ず、また潅漑水も需要期に不足する状況に見るに耐え兼ねた治衛門は一念発起し、己の考えを実行に移してその結果を見ようと耕地の高低を考えたうえ、一番の要所に自力で柴堰を築き上げ堰き止められた水を耕地に潅漑水として引き入れ、それが見事に成功し、久保の田圃は稲作に適するようになりました。
村人たちはこの偉業を讃え、堰の名を治衛門堰と呼ぶようになったのだという口伝が残っています。
《面影さへ残していない治衛門堰のあった矢田川》
いわき市鹿島町を歩こう 73
矢田川の治衛門堰(せき)跡 場所 : いわき市鹿島町久保1
矢田川と蔵持川が合流した地点から約100メートルほど下流へ行った所に、かつて治衛門堰と呼ばれていた堰場がありました=写真。
推定で樹齢300年は経っていると思われる1本の黒松が土手に生えており、まるでそれが堰の目印のようでした。昭和53年に河川工事に支障が出て伐り倒されてしまい、堰自体も姿を消しました。
その堰が存在していたという事実を、上下写真で比較してみると唯一手掛かりになるのは遠方の三角形をした山(走熊地区の高寺山)の位置で確認できます。下の写真では分かり難いかと思いますが中央部分に僅かに三角形をした山が見えるのがそうです。
《昭和27年、コンクリ-ト造りになった当時の治衛門堰》
久保邨(村)は昔から天然水が不足して、所有耕地が常に水不足に悩み、水田が作付け不能になる事がしばしばありました。
30数町歩(約9,000坪)の耕地が水不足のために田植も出来ず、また潅漑水も需要期に不足する状況に見るに耐え兼ねた治衛門は一念発起し、己の考えを実行に移してその結果を見ようと耕地の高低を考えたうえ、一番の要所に自力で柴堰を築き上げ堰き止められた水を耕地に潅漑水として引き入れ、それが見事に成功し、久保の田圃は稲作に適するようになりました。
村人たちはこの偉業を讃え、堰の名を治衛門堰と呼ぶようになったのだという口伝が残っています。
《面影さへ残していない治衛門堰のあった矢田川》