アジアと小松

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小松基地問題研究会

小説「蒼穹の月」(2)

2019年08月16日 | 尹奉吉義士
小説「蒼穹の月」(2)

                     小説であり、虚実こもごもであることを御了承下さい

(二)上海(一九三二年四月)

故郷を離れる
 尹奉吉は一九三〇年三月六日(二三歳)、「丈夫出家生不還」と書き遺して家を出た。この遺書は中国戦国時代の刺客荊軻(けいか)が秦の始皇帝を殺害するために出発する直前に「風蕭々兮易水寒 壮士一去不復還(風蕭々として易水寒く 壮士ひとたび去りて復た還らず)」と詠んだ時世の句からとっている。
 挿橋(サプキョ)駅までの八キロの道を振り返り〳〵歩き、ソウルで京義(キョンイ)線に乗り換えて新義州(シニジュ)に向かったが、宣川(ソンチョン)で強制的に下車させられ、半月間警察に勾留された。釈放された尹奉吉は李黒龍と再合流し、新義州から鴨緑江(アムノクカン)を超えて、ついに中国(安東=丹東)に入った。尹奉吉は中国東北部(満州)の独立軍を訪問したが、朝鮮同胞の独立戦線は極めて厳しい状況に置かれていた。尹奉吉は上海へ向かうことにした。
 十月、尹奉吉は青島に着いたが、上海へ行く旅費がなく、昼は日本人クリーニング店で働き、夜は同胞(埠頭の労働者、日雇い労働者)を相手に講習所(労働夜学)を開いた。尹奉吉は一九三一年五月八日、青島での生活を清算し、上海に向かった。

独立運動の坩堝・上海
 尹奉吉を迎えた当時の上海では、千人近くの朝鮮人が暮らしており、韓国労兵会、南華韓人青年聯盟、同友会、興士団、公平社、留滬韓国独立者同盟、上海韓人青年同盟、在中国韓人青年同盟、中国革命互済会韓人分会、臨時政府、上海韓人反帝同盟、上海大韓僑民団、韓国義勇軍上海総司令部、上海韓人青年党、上海韓人女子青年同盟、韓国独立党、中国共産青年団上海韓人支部などの団体が活動していた。まさに、上海は朝鮮人独立運動・革命運動の坩堝だった。
 尹奉吉は安恭根(アンコングン:安重根の実弟)に紹介されて、中国髭品(ミリ)公司(馬の毛で帽子や日用品を作る工場)で働き、ここで、「韓人工友親睦会」(労働組合)を作った。上海ではコムニスト系(上海韓人反帝同盟)と独立運動系(上海大韓僑民団=臨時政府)が競い合って、日帝とたたかっていた。尹奉吉は、安恭根の紹介で、臨時政府(韓人愛国団)の金九と接触した。
 尹奉吉は大韓民国臨時政府の実情を聞かされ、革命を起こせるような状況ではないと判断し、世界の革命史を勉強する目的で渡米計画を立て、英語の勉強を始めた。
 七月には、万宝山事件(中国人と朝鮮人の土地をめぐる衝突)が起き、日帝・関東軍はこの事件について虚偽の情報を流し、中国人と朝鮮人を対立させる方向に誘導した。上海でも、これまで朝鮮人には友好的であった中国人の感情は一変して、悪化した。九月、日帝は「満州事変」を引き起こし、中国東北部(満州)を占領した。抗日武装闘争勢力の一部は「満州事変」で本拠地を脅かされ、中国本土の大韓民国臨時政府に合流したり、連絡をとりながら活動するようになった。臨時政府は沈滞期から脱し、活動が積極的になった。金九は韓国独立運動の活路として、臨時政府の傘下に秘密結社の「韓人愛国団」を組織した。

上海爆弾事件
 中国東北部(満州)を占領した日本は国際的非難にさらされ、非難の矛先をそらすために、上海で中国人暴徒に日本人僧侶を襲撃させ、これを口実にして、一九三二年一月、日帝海軍第三艦隊の陸戦隊が中国軍への攻撃を開始し、「上海事変」を引き起こした。
 そして、四月二九日の天長節に、上海虹口公園で戦勝(侵略)祝賀式典が予定され、金九は祝賀式典爆砕を尹奉吉に指示し、尹奉吉は実行に移し、その場で逮捕された。
 
 尹奉吉は上海虹口公園の向かい側にある憲兵分隊に連行され、床の上でぐったりとしていた。小半時ほど前、雨の虹口公園で日本人群衆にしこたま殴打され、泥靴でところかまわず足蹴にされていた。これからは憲兵の拷問が待ち受けていた。
 上海派遣軍は総領事館と協議し、尹奉吉を軍法会議で裁くことになり、楊樹浦軍司令部囚禁所に移監した。法学者信夫淳平からは「軍法会議ではなく、在上海総領事館で予審をおこなって、長崎地方裁判所の管轄に移すべきだ」という疑義が出されていたが、それは無視されていた。
 憲兵隊は焦っていた。一刻も早く、尹奉吉の背後関係を洗いだし、手を打たねばならなかった。尹奉吉は、十日間は金九(キムグ)のことは話すまいと決意していた。すでに結論が決まっており、なにも話すことはなかった。話せば、同志に危害がせまるだけで、話したからといって生きる望みがあるはずもなかった。
 しかし、拷問のたびに、尹奉吉の肉体はきしみ、生きていたいともがいていた。
 五月二日には予審請求がおこなわれ、尹奉吉は拷問に耐えぬいて、十一日の取り調べまで持ちこたえた。その間に、金九は「虹口公園爆弾事件ノ真相」を発表し、すでに安全圏に脱していた。

 『計画ト遂行』
   日本ハ強力ヲ以テ韓国ヲ併合シ、次デ満州ヲ征服シ、更ニ理由ナク上海ニ侵入スルコトニ依ッテ東洋並ニ世界ノ脅威トナッタ。サレバコソ余ハ世界平和ノ敵、人道ト正義ノ破壊者ニ対シ復讐スベク決心シタノデアル。(略)
   四月二九日早朝余ハ我ガ青年同志尹奉吉君ヲ召致シテ余自身ノ製作セル爆弾二個ヲ彼ニ与ヘタ。一個ハ我等ノ敵ナル日本軍閥ヲ殺害スル(日本人以外ノ何人ヲモ傷ケザル様細心ノ注意ヲ払ヒテ)為メ、又一個ハ行為終ッタ後彼自身ヲ殺ス為メニ。彼ハ余ノ命令ヲ遂行スル事ヲ厳粛ニ約束シタ。余等ハ目ニ涙ヲタタエテ握手ヲ交シ互ニ別レヲ告ゲ且又ノ世ニ相見ンコトヲ誓ッタノダ。余ハ自動車ヲ雇ッテ彼ヲ虹口公園ヘ送リ出シタ。彼ハ其ノ身ニ二個ノ爆弾ト四弗ノ金ヲ有スルノミデアッタ。余ハ彼ノ成功ヲ祈ッタノデアル。(略)

 五月中旬ごろから白川義則上海派遣軍司令官の体調が激変していた。閣議は「五月中には陸兵の全部を撤退させる」と決定し、田代皖一郎参謀長は上海派遣軍の撤退までに尹奉吉の死刑判決を出さねばならないと自覚していたが、白川の死はその時期をさらに早めそうだった。
 なかなか尹奉吉の供述調書ができず、ようやく十九日に予審が終結し、二十日に「殺人殺人未遂及爆発物取締罰則違反」により公訴を提起し、第一回目の軍法会議を五月二五日とした。
 五月二一日、白川は四十度の熱を出し、四回目の輸血がおこなわれた。翌日、容態が少し持ち直し、一息ついたのもつかの間、上海港に停泊中の送還船が便衣隊(ゲリラ兵)の攻撃で炎上し、田代は善後策に追われていた。
 二四日には、白川の開腹手術をおこなったが、多量の出血に見舞われた。部隊の帰還準備と白川の容態悪化で、田代は寝る間もなかった。
 二五日、白川にチアノーゼが現れ、脈拍、呼吸がこと切れんとしていた。この日に、第一回軍法会議が開かれたが、白川の容態の急迫に、判決を書く余裕もなく、次回の審議を未定として閉廷した。
 二六日午前零時三十分、鼓動も呼吸もなくなり、十三回目の輸血をおこなったが、午前六時二六分(日本時間七時二六分)、白川は他界の人となった。
 二八日、田代は白川の遺体とともに軍艦龍田で日本に向かった。
 三一日には上海派遣軍の全てが撤退し、憲兵隊と尹奉吉が上海にとり残されることになった。本来、派遣軍が引き揚げれば、尹奉吉を現地の領事館に引き渡し、通常の裁判に委ねねばならない。しかし、田代は軍法会議での判決にこだわっていた。
 六月二日に東京で白川の陸軍葬がおこなわれ、田代は上海に取って返した。もはや軍法会議などさほどの意味もなく、急いで「判決書」を完成させ、「五月二五日」の日付を付したが、公表は控えられた。どの新聞も白川の死と植田謙吉の凱旋を大きく取り扱っていたが、判決には一言も触れていなかった。


(三)大阪衛戍監獄(一九三二年十一月)

 一九三二年十一月十八日、尹奉吉は大型客船の大洋丸で上海を離れた。遠巻きにする乗客の中に、心配そうな目線を投げる同志が見えたが、もちろん近づくこともできなかった。
 乗客は、船中に異様な集団がいることにざわめいていた。與一もその一人だった。
 與一は金沢出身の台湾総督府・技術官僚で、嘉南大圳(大規模灌漑ダム)建設の責任者だった。嘉南大圳は本土から台湾に進出した糖業資本のために計画され、台湾南部の農地と農民を甘蔗栽培に動員する植民地政策として、一九三〇年に完成していた。
 運用が始まると、流域の農民は水租を納入できず、家財道具や不動産を差し押さえられたり、やむなくわが子を売らざるを得ない者まで出ていた。農民組合は「埤圳管理権奪回」「水租の減免」「三年輪流灌漑反対」「総督独裁政治反対」を掲げてたたかっていた。與一にとっては総督政治は絶対であり、台湾農民の反抗を苦々しく思っていた。
 與一は嘉南大圳の次は揚子江や黄河、スマトラのトバ湖だと考え、密かに海南島から中国本土の調査に出かけての帰りだった。揚子江の武昌あたりで、川をせき止めれば、いいダムができると、上機嫌だったが、半年前の新聞報道を思い出し、不機嫌になっていた。
 大洋丸は関門海峡を通過し、瀬戸内海の島々を縫うようにして進み、十一月二十日神戸港に到着した。尹奉吉を乗せた車は新聞記者の追跡を巻いて、一目散に大阪城内の陸軍衛戍監獄にかけこんだ。
 翌日の新聞は、半年前に出された尹奉吉の死刑判決を、はじめて報じ、かしがましく書きたてた。

  上海爆弾犯人尹奉吉 厳戒裡に大阪へ 
  陸軍衛戍刑務所に収容 近く愈よ銃殺さる
   本年四月二十九日天長節の佳辰にあたり上海新公園において行はれた我が派遣軍観兵式終了後の官民合同祝賀会場の壇上に爆弾を投じ遂に白川大将、河端行政委員会長の生命を奪ひ、重光公使の右脚と野村中将の右眼を失はしめ全国民を憤慨の極度に陥らしめた爆弾犯人…尹奉吉(二六年)は現場において直に我が警備の軍憲に逮捕され、上海派遣軍軍法会議で死刑確定し、いよいよ大阪陸軍衛戍刑務所で銃殺されることとなり二十日午後二時四十分郵船大洋丸で神戸港外和田岬着、陸路大阪に護送され同日夕刻大阪陸軍衛戍刑務所に収容された。

 大阪衛戍監獄では、毎日数十分の運動の時間があった。運動場は畳三枚ほどの広さで、板塀で厳重に仕切られ、いくつも並んでいた。逃亡・通謀防止のために一室おきに使われていたが、ある日、となりの運動場に人の気配がした。尹奉吉は看守に気づかれないように、日本語で声をかけてみた。
「四月二九日ノ上海爆弾事件ヲ知ッテイマスカ。」
「聞いてはいるが、詳しくは知らない。」
 素っ気ない返事に、尹奉吉は続けた。
「上海派遣軍ノ戦勝祝賀会ニ爆弾ヲ投ゲテ逮捕サレ、軍法会議ニカケラレテイタノデスガ、判決ノ直前ニ、派遣軍司令官ノ白川ハ死ニマシタ。第九師団ノ植田謙吉ハ左足ヲ切断スル重傷ヲオッテ…。」
 宿敵植田の名前が出てきて、男は口を開いた。
「九師団七連隊の兵士なんですがね、戦争反対を呼びかける『無産青年』を隊内に持ち込んでね、まずいことに、それが見つかって逮捕されてね。軍法会議にかけられて、二年の判決で、ここで服役しているんです。」
 尹奉吉には、意外だった。
「日本ニモ、戦争ニ反対スル兵士ガイルノデスカ。」
「多くはないけどね。」
 男は鶴彬と名乗り、短い運動時間はすぐに終わった。

 『赤旗』で「反帝国主義テーゼ」が発表され、一九二九年頃から軍隊工作が始められ、鶴彬が入営した年にも、反帝同盟金沢支部のビラが兵営付近の電柱に張り出された。
 一.兵士ノ家族ノ生活ヲ保証シロ!
 一.兵士ニ面会・通信・読書・外出ノ自由ヲ与ヘロ!
 一.兵士ニ対スル絶対服従制度廃止!
 一.労働者農民ヲギセイニスル帝国主義戦争並ニ其ノ準備絶対反対ダ!
 一.反帝同盟ヘ加入シロ!
 一.入営ノ一切ノ費用ヲ国庫デ負タンシロ!
 一.入営ニヨル失業絶対反対!
 一.入営中家族ノ生活ヲ保証シロ!
 一.兵役ヲ一年ニ短縮シロ!
 一.労働者農民ヲギセイニスル帝国主義戦争絶対反対!

 日本にも、侵略と植民地支配に反対してたたかい、監獄に収監されている青年がいることに、尹奉吉の胸が熱くなった。鶴彬に会えるかと期待して、運動場に出かけても、期待が裏切られて帰る日が続いた。

 上海派遣軍参謀本部は、八月頃から、尹奉吉の処刑について具体的に検討していた。上海で処刑すれば、遺体・遺骨が朝鮮人革命家に奪われるおそれがあり、最初から除外された。日本への移送先は大阪衛戍監獄であり、大阪での処刑が順当だが、最後まで上海に残留した金沢第九師団による処刑・埋葬も視野に入れて、具体的に調査をおこなっていた。
 十一月二五日、大阪衛戍監獄で、宮井所長、東京地検の亀山検事、九師団法務部の根本大佐を交えて、処刑日時、処刑地、遺体処理、埋葬地、移動方法などについて、最終的な検討がおこなわれた。この日は、大阪、金沢それぞれの報告を受け、最終的に決定するための会議だった。

 亀山検事の問いに、
 宮井所長は「大阪城内の城南射撃場は半地下形式になっており、そこでの処刑は外から見られる心配はないでしょう。遺体は真田山陸軍墓地に埋葬できますが、常時監視は難しいのではないでしょうか。」
 根本大佐は「金沢郊外の三小牛山(みつこうじやま)陸軍作業場で処刑し、隣接する野田山墓地の管理事務所の際に埋葬すれば、常時監視も出来ます。事務所には電話が引いてありますから、朝鮮人が遺体を掘り出そうとしても、すぐに連絡することが出来ます。」
 真田山と三小牛山から野田山の地図を広げて、具体的に確認したあと、亀山検事は、朝鮮人の動向について訊ねた。
 宮井は「大阪では、二十日に尹奉吉が収監されてから、反帝同盟が『朝鮮人が産んだ反帝国主義者尹奉吉の銃殺に対する反対運動を捲き起こせ』と、ビラを配布して、尹奉吉の奪還を訴えています。朝鮮や警視庁などから朝鮮人専務の巡査を動員し、十一月上旬までに、百数十名の朝鮮人危険分子を検束して、拘留しています。処刑はいいとしても、埋葬後の管理がちょっと不安ですね。」
 根本は「金沢では、昨年以来、共産党員を五十人ほど検挙して、ほぼ壊滅させました。朝鮮人の労働争議が多少増えていますが、大阪ほどではないでしょう。尹奉吉の事件に関しては、朝鮮人のなかでもほとんど話題にもなっていません。」
 金沢での処刑を決定し、十二月上旬までに尹奉吉の移送、処刑の具体的計画をたてることにして、この日の会議を閉じた。

あと十日の命
 十二月九日、亀山検事は再び大阪に来て、処刑準備の進捗状況を確認した。尹奉吉を呼び出し、形ばかりの取り調べをおこない、「十二月十八日に、金沢第九師団に移送する。」と、告げた。それは処刑の宣告だった。
 あと十日のいのちに、尹奉吉の心臓ははげしく波打った。
 翌日、久しぶりに、となりの運動場に人の気配が感じられた。待ちに待った鶴彬だった。尹奉吉は堰を切ったように話し始めた。「十八日ニ金沢ニ移送サレ、十九日ニハ処刑サレルコトガキマッタ。」と。続けて、
「決行直前ノ四月二七日ニ虹口公園ヲシタミニイッタトキニ、ワタシガフンダ芝生ニハ、ソノママ立チアガレナイモノモアレバ、フタタビ立チアガルモノモアリマシタ。人間モマタ力ノツヨイモノニ踏マレタトキニハ、コノ芝生ノヨウニ、立チアガルヒトモオレバ、ソノママダメニナッテイクヒトモイマス。」
 鶴彬は、じっと目をつむって聞いていた。
「鶴先生、朝鮮人ハゼッタイニアキラメマセンヨ。枯レタヨウニミエル芝生デモ、雨ガフレバ、フタタビメヲダスチカラヲモッテイマス。ワタシタチハ芝生ノヨウニ、何回デモ生キカエッテ、カナラズコノ手デ独立ヲツカミマス。トコロデ、李奉昌先生ガ天皇ニ爆弾ヲ投ゲタ事件ハドウナリマシタカ。」
「李奉昌さんは先月の十日に処刑されました。」
 しばらくの間、尹奉吉には言葉がなく、絞り出すように、
「悔シイジャアリマセンカ、鶴先生。日本ガ朝鮮ヲ併合シ、ナニカラナニマデ奪ッテイッテ、ワタシラニハモウ投ゲダス命シカノコッテイマセン。ソノタッタヒトツノ命マデトラレテ、ドウシタラヨイノデスカ。ソレナノニ、共産党マデガ、李先生ノ行動ヲファシスト団体ノ陰謀ダトイッテイルソウジャアリマセンカ。ドウシテ、日本人ニハ朝鮮人ノ気持チガワカラナインデスカ。」

 鶴彬は、尹奉吉の熱い気持ちに接し、『赤旗』の論争を反芻していた。紙面では、共産党の主張にたいして、「ファシストの陰謀という断定には賛成できない。朝鮮人には日帝に対する深い憎悪と反抗の念が刻み込まれている。それが今回の事件の原因である。李奉昌の勇敢な行動にたいしては、革命家としての敬意を払うべきだ。彼の英雄的行動を蔑視したり、黙殺してはならない。」と反論が出されていた。しかし、その半年後に起きた尹奉吉のたたかいは、やはり黙殺された。
 鶴彬には、弁解の余地はなかった。
「鶴先生、ワタシハコノ命トヒキカエニシテ、日本ノ横暴ヲウッタエマシタ。日本ガ朝鮮ヲ併合シ、総督政治ノモトデ労働者農民カラ絞リアゲテイルコトヲ、日本ノ労働者ニカナラズ伝エテクダサイ。」

 鶴彬は尹奉吉に深い知性と強い意志を感じた。植民地支配のもとで、すべてが奪われている朝鮮人民を思うと、心がふるえた。運動時間が終わり、舎房に向かったとき、鶴彬の耳に、看守と激しく言い争う声が聞こえた。尹奉吉の口から突いて出る言葉は、日本語から、朝鮮語へと変わっていた。
 舎房に戻った鶴彬は、数年前に発表された伏せ字だらけの「雨の降る品川駅」の一節を思い出していた。

  そして再び
  海峽を躍りこえて舞い戾れ
  神戸 名古屋を經て 東京に入り
  彼の身に近づき
  彼の面前にあらはれ
  彼を捕へ
  彼の顎を突き上げて保ち
  彼の胸元に刃物を突き刺し
  反り血を浴びて
  溫もりある復讐の歡喜のなかに泣き笑へ

 鶴彬は、天皇の車列に爆弾を投げ、十月に処刑された李奉昌、四月天長節に爆弾を投げ、処刑を待っている尹奉吉が目の前にいることに衝撃を受けていた。日本の労働者人民こそが「彼(天皇)を捕へ 彼の顎を突き上げて保ち 彼の胸元に刃物を突き刺し 反り血を浴び」ねばならないと、その責任が鶴彬の胸を押しつぶした。


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