アジアと小松

アジアの人々との友好関係を築くために、日本の戦争責任と小松基地の問題について発信します。
小松基地問題研究会

小説「蒼穹の月」(1)

2019年08月15日 | 尹奉吉義士
 小説「蒼穹の月」         


(一)前史(一九一八年~)        〇一
(二)上海(一九三二年四月)       一四
(三)大阪衛戍監獄(一九三二年十一月)  二〇
(四)金沢(一九三二年十二月)      二九
(五)三小牛山(一九三二年十二月十九日) 四二
(六)献辞(一九三三年一月)       五〇
                        二〇一九年八月十二日

注:小説であり、虚実こもごもであることをご了承ください。

(一)前史

米騒動(一九一八年)

「健ちゃん、うちはどうなるんけ」。十二歳の健と五歳年下の文子はふるえていた。
 早朝から、和波町や末広町から二、三百人のかあかたちが押し寄せ、口々に、「米、安くしてくとんせ」と、米価の引き下げを求めて、激しく板戸を叩いていた。
 昨年は一升二十銭程度だった米価も、シベリア出兵(八月)による米不足感から、八月中旬には四十銭を超えていた。
 一九一八年七月下旬、富山湾岸の町々から始まった米騒動は八月には石川県にも波及し、十一日高浜町、堀松村末吉(志賀町)、十二日金沢宇多須神社(三千人)、十三日兼六園霞ヶ池(三千人)、二一日宇出津町(能都町)、二六日穴水町、松任町(白山市)、その他山中町(加賀市)、美川町(白山市)にも波及した。
 この年、父助次郎は南町の踏切の際から商業の中心部中町に店を移し、本格的に精米業に加えて塩乾物の商いを営んでおり、米価高騰で商機を狙っていた。ありったけの金をはたいて仕入れておいた米を、一升三五銭で売ろうとしたが、かあかたちの騒ぎで、結局、仕入れ値にも満たない二五銭にまで下げざるを得ず、儲けにはならなかった。

 米騒動から三年の歳月が流れた。シベリア出兵後の不況のあおりを受け、加えて南米チリーに渡って商いをしていた長兄の事業が失敗し、中町通りの精米所は人手に渡った。
 助次郎の収入が途絶え、一家は商業地域から離れた、カワウソが棲む安産川にほど近く、美川尋常小学校の前に居を移した。十五歳の健は小松中学中退を余儀なくされ、戸板村大豆田の金沢紡績に職を求め、製品の品質検査をおこなうゲレンバにまわされた。この地は島田清次郎が一時期暮らしていた元車町からほど近く、鉄道線路で隔てられた、金沢の辺境であり、差別され、貧しい地域であった。
 休日になると、健は父母の許に帰り、文子と一緒に、手取川に架かる何龍橋を渡り、熊田源太郎が開設した私設図書館「呉竹文庫」にでかけた。健は賀川豊彦や同郷の島田清次郎に親しんでいたが、ベストセラーになった『地上』にも、戯曲『帝王者』にも違和感と不快感を感じながらも、そこに描かれている労働者には、深い共感を寄せていた。
 金沢には、魚臭い風が吹く美川にはない、新しい世界があった。とりわけ、ハイカラな建築様式の写真館とショーウインドウが健の心をとらえていた。写真術が入ってきた江戸末期から、すでに五十年が過ぎ、湿板から乾板に進歩し、金沢にも二十軒ほどの写真館が開業していた。
 単調なゲレンバの作業に飽き〳〵していた健は、思い切って、香林坊よもんど橋詰めの中村写真館の戸を叩いた。写真師の中村正義は大野弁吉の愛弟子小池兵治に師事して写真術を学んでいた。北陸人物名鑑は、中村正義を「写真術は市内に於ても殆んど比類なき特技を有し、現代に於ける最も新しきダブルライチングベットソフトホーカスの如き、又た原板技術上最新式のバックレタッチングの如き、実に氏に於て之を見ることを得べし」と評している。

関東大震災(一九二三年)
 健は一年ほどの住み込み修行で、兄弟子の庵さんに随いて独立し、材木町で庵写真館を開業したが、市中心部から外れていたために客足は伸びず、次第に第四高等学校の学生たちのたまり場と化していった。閑をもてあましていた健も加わり、仕事をそっちのけにして、政治談義に熱中し、やがて庵写真館は経営的に行き詰まっていった。
 一九二三年九月一日、首都東京を関東大震災が襲った。健は『北国新聞』が伝える震災報道に衝撃を受けていた。
 三日付の紙面は「朝鮮人等横行す 秩序全く紊(みだ)る」「朝鮮人武器を携へて横行 官吏青年団 武装して警戒に努む」という見出しで、「焦土と化したる東京市中は大混雑を呈し朝鮮人等跋扈して非常に暴行を働き無秩序の状態にあり」と激しく朝鮮人を非難していた。
 健は、震災のどさくさに紛れて、こんなひどいことをする朝鮮人に怒りを感じていた。
 四日付「朝鮮人一千東京に進撃 軍隊と大衝突 歩兵一個小隊は全滅す」「横浜で不逞朝鮮人銃殺 兇器を携へて避難民を襲ふ」「朝鮮人に警戒せよ 警保局から急電」「帝都混乱の機会に乗じて不逞朝鮮人は支那人を交へて盛んに暗中飛躍を試み三日未明以来純然たる暴徒に化し爆弾を高位高官に投げつくるもの各所に起るので武装を整へた宇都宮高崎千葉の各聯隊は戒厳令を布いて厳重に警戒を加へその結果止むなく斬捨て或は銃剣に突刺さるる支那人朝鮮人もあると。」
 五日付「頻りに伝はる 朝鮮人来襲説 二千名御殿場に向ふと」「後報によると二千名の朝鮮人御殿場駅に向って襲撃しつつありとの説あり四九聯隊は富士、吉田口籠坂峠の二箇所に武装兵を派して待ち構へつつあり。」

 スタジオにやってきた東京出身の四高生は、口角泡を飛ばしていた。
「朝鮮人の暴動なんて、全部デマさ。」
「新聞が嘘を書くはずないやろ。」
「いや、憲兵や自警団が朝鮮人や社会主義者を片っ端から殺しているそうや。」
「おまえ、どうしてそんなこと知っとるがや。」
「母が電話で、」と答える声に確信がなかった。
 十日になって、「井戸の毒物混入は全然無根 軍医学校で検査の結果 形跡なしと判定」との記事が載り、「朝鮮人が井戸に毒物を投げ込んだ」という情報が否定された。
 『文章倶楽部』(新潮社)十月号には、細田民樹の「運命の醜さ」が掲載された。この雑誌は若者向けで、島田清次郎もよく書いていたので、健も時々手にとっていた。細田は関東大震災での朝鮮人や社会主義者にたいするいわれなき暴力を描いていた。
 翌年、四高生が持ってきた『演劇新潮』四月号には、自警団や在郷軍人の横暴を描いた戯曲『骸骨の舞跳』(秋田雨雀)が載っていた。

 老人 然うでせうか?…でも朝鮮人が火を放けて歩いてゐるという噂ぢゃありませんか…ほんとに怖ろしいことですね…
 青年 (語気を強めて)あなたも然んなことを信じてゐるんですか? 僕等はもう少し自信をもちませう。僕は出来るだけの事を調べてきてゐるんです。
 老人 然うですか?…でも噂にしては大変な嘘をこしらへたものですね…何んでもそのためにこの汽車の沿道でも大分朝鮮人が殺されてゐるといふ話しですが、真実でせうか?
 青年 それは真実です。僕は昨日から色々な事を見せられて来ました…僕は日本人がつく〴〵嫌やになりました。

 救護班員 山田さん、大変ですよ。本部の前で朝鮮人が殺されたさうです…
 看護婦 その朝鮮人は何かしたんですか?
 救護班員 何んでも朝鮮人が大勢で師団へ押し寄せて来るといふ噂さです。
 避難者 (殆んど全部の男は一斉に立上がる)朝鮮人だ!
 避難者 やつぱり朝鮮人がやつて来たんだ!
 避難者 朝鮮人は己れ達の敵だ!

 老人 あなた朝鮮人が押し寄せて来るつてのは真実でせうか?
 青年 どうして然んなこと考へられませう。第一、師団を襲撃するなんて可笑しな話ぢゃありませんか? 朝鮮人は武器一つ持つてないんです。(略)
 老人 然うでせうか…でも何うしてそんな噂が立つんでせうね…
 青年 日本人に自信がないからです!
 避難者 あいつは何んだへ?
 避難者 朝鮮人ぢゃないか?
 避難者 朝鮮人だ…朝鮮人だ…
 避難者 やつつけろ〳〵!

 青年 余計な事を言ふんぢゃない。君達こそよけいなことをしてゐるのだ! 軍隊や警察があるのに、そのざまは何んだ? 甲冑、陣羽織、柔道着…君達には一体着る衣服がないのか? 
(青年はある男を見て)君、起ちたまへ。さあ、しつかり起ちたまへ。君達のいふやうに、或はこの人は朝鮮人かも知れない。然し朝鮮人は君達の敵ぢゃない。日本人、日本人、日本人。君達に日本人が何をして呉れたか? 日本人を苦しめてゐるものは朝鮮人ぢゃなくて日本人自身だといふこと。

 真実が次々と明らかになっていった。六千人の朝鮮人が虐殺され、大杉栄、伊藤野枝が虐殺され(甘粕事件)、河合義虎等が虐殺され(亀戸事件)、社会主義者が次々と検束されていた。
 しかも、気になるニュースも飛び込んできた。翌年八月二日の「北國新聞」は「血のついた浴衣を着て 真夜中を 島清迂路つく 警視庁で精神病者と鑑定し 庚申塚保養院に入院す」と報じ、島田清次郎は治安弾圧の対象とされ、六年間の幽閉の末、社会から抹殺されたのである。 
 健にとって、島田清次郎とは六歳ほどの年の差があり、幼少時に美川を去っていたとはいえ、いつも話題にあがる、近しい人だった。清次郎の父が回漕業を営んでいたときも、母みつと祖母里せが旅館を営んでいたときも、指呼の間で米穀・乾物類を商っている助次郎商店の取り引き先だったからだ。

一九二九年恐慌 
 庵写真館を閉鎖した後、健は加賀大聖寺町の小池写真館で主任技師として働いていた。写真館は御大典(一九二八年)でにぎわっていたが、関東大震災は日本経済に深刻なダメージを与え、すでに金融恐慌に突入していた。中国では日貨排斥運動が起こり、中国市場を確保するために、二度にわたって「山東出兵」(一九二七年、一九二八年)を強行していた。
 石川県内の経済も厳しい状況を呈していた。労働者の賃金は震災前と比べて、六〇%まで低落し、金沢には失業者があふれていた。農民の借金は増え、漁民はもっと窮地に追い込まれていた。当時の新聞は「内灘村は食うべき何物も持たず、耕さうにも土地がなく、その上に貨幣収入から見放され」と伝えていた。
 健がかつて働いていた金沢紡績は、一九二六年に錦華紡績と名前を変え、県内最大の紡績工場になっていたが、その男工の日給は五五銭ほどで、これでは米を二升も買えなかった。朝鮮併合・土地調査で先祖伝来の土地を奪われ、やむなく日本に渡ってきた朝鮮人の賃金はもっと深刻だった。このような状況のなかで、一九二九年恐慌が人々を襲った。
 十一月、金沢末町の水道工事現場で、朝鮮人二人と日本人一人が死亡する事故が起きた。日本人はすぐに助け出され、乗用車で病院に送られたが、朝鮮人は昼過ぎまで放置され、荷物のようにトラックの荷台に乗せられて運ばれた。
 朝鮮人労働者は日頃から差別賃金に不満を持っていたが、この事故を引き金にして、朝鮮人労働者と家族は市役所に押しかけた。一九二九年「十一・三光州学生蜂起」の知らせも、金沢にまで届いており、朝鮮人の怒りは沸点に達していた。
「工事現場ノ安全ガ、ハカラレテイナイジャナイカ。」
「仲間ノイノチヲカエセ。」
「ワタシラハ、日本人ト同ジ仕事ヲシテイルノニ、給料ハ日本人ノ半分ジャナイデスカ」
「日給ヲアゲロ。」
「差別アツカイヲヤメロ。」
 朝鮮人はたどたどしい日本語で口々に、金沢市と会社の責任を追及したが、当局者は強圧的な態度で、
「それは労働者の不注意のせいだ。組合と連絡して運動すれば一文も出さない」と一歩も引き下がらなかった。
 請負会社に交渉に行けば、警察が駆けつけてきて十三人が検束され、釈放を要求して広坂署にも連日押しかけた。金沢戦旗支局ニュースが方々に支援を呼びかけ、工事現場の朝鮮人労働者を激励した。二十日間のたたかいで、死者一人七百五十円の弔慰金を出させて、争議は終結した。
 一九三〇年四月、このたたかいを担った李心喆、鄭東振らが石川自由労働組合を結成し、前年に来日したばかりの尹萬年も加わった。その後、川崎機業場火災生活保障闘争(三月)、錦華紡績賃下げ解雇争議(七月)、七尾セメント解雇争議(八月)、小松製作所解雇争議(九月)が続いた。
 錦華紡績は「社員は十から十五%、職工は八%の減給」と発表した。健はかつて庵写真館にたむろしていた四高生から、錦華紡績の労働者にストライキを呼びかけるビラ入れを誘われ、夜陰に紛れて塀を乗り越えた。健にとって、錦華紡績はかつての職場であり寄宿舎だったので、勝手を知ったわが家同然だった。

  ボウセキの姉妹たち!
   ワタシラはホカのカイシャよりもヅット安い賃金でシカモ工場法をやぶってまで朝はクライ三時前から夜中の十二時スギまでコキ使はれて休み時間もユックリめしを食ふ時間もない。金も時間もウントヌスンデ、カイシャは日本一のボロモウケだとイバッテゐる。
   ムチャクチャにコキ使はれたワタシラは病にはカカル、うちの者は食てゆけぬで、ミンナはらの中は煮えくりかえってゐる。
   モウ工場長のウソのナミダや小林のゴマカシ笑ひにだまされてイノチをとられてしまうのを待ってゐないぞ。
   コレニビックリシタカイシャのヤツは三工場の車君が会社のケシカラントコロを話してゐたと云ふてクビにしたがワタシタチ誰も彼もミンナそう思ってゐるのだ。
   車君のクビには絶対反対だ。ワタシタチ使はれてゐるものはオタガヒだ。

 ほとんどのビラは明け方までには回収され、なかなか労働者の手に渡らなかったが、口づてに伝わり、二七日になって五十人ほどの労働者が「夜勤手当の支給と食事の改善」を求めてストライキに入り、翌日には三百人にふくれあがった。

 小池写真館には、月に二回しか休みはなく、その日が来ると、健は両親に会いに美川に戻り、その足で呉竹文庫に向かうか、文子と落ち合って香林坊へ出かけた。来る日も来る日も、昼となく夜となく錦華紡の工場で働かされ、へとへとになっている文子にとって、レストラン魚半で、健とともに過ごすひとときが何よりも楽しみだった。
 この日も、文子はよく食べ、よくしゃべった。
「健ちゃん、新しい大正時代の女子教育を受けていても、いざ結婚すると、男女の差別はなんとひどいじゃありませんか。嫁としての立場は相変わらずだし、忍従と過労の毎日じゃありませんか。」
 呉竹文庫では、恋愛ものしか読まなかったのに、婦人問題に関心を持ち始めた文子に、健は目を細めた。文子の話しはとまらなかった。
「子供たちのために、社会の誤った習慣や偏見をなくし、女性のために一切の不合理を是正しなくてはならない。人の世に生まれ、女なるが故に選挙権も与えられないのは口惜しいじゃないですか。私たち女性は今、扉の中に閉じこめられています。法の不備、低い教育、激しい労働に苦しめられて、女性はかわいい子供ぐるみ共倒れになりそうです。私たちは早くこの扉を開いて出なければならない。」
 金沢にも、大正デモクラシーのさざ波が押し寄せていた。一九二九年六月には米山久子や駒井志づ子らによって、婦人講演会が開催され、十一月には、その勢いで婦選獲得同盟金沢支部を結成していた。
 健は婦選運動を訴える文子にたじたじになっていた。

満州事変(一九三一年)
 一九三一年、関東軍は南満州鉄道を爆破して、「満州事変」を起こし、翌年には、上海で日本人僧侶を襲撃させ、「上海事変」が始まった。
 美川からも青年たちが応召し、上海に引っ張られていった。第七連隊の空閑大隊長ら二百人の部隊が奇襲攻撃をかけたが、逆に包囲され、全滅し、郷里の将兵一四七人が戦死し、友人たちは骨になって、次々と還ってきていた。
 このころ、母が亡くなり、姉は結婚し、兄たちは遠くアメリカの地にあった。健はひとり残された父と暮らすために、美川で写真館を開こうと考えていた。十年間の修行によって、独立するには十分な技量を蓄えていた。
 上海爆弾事件が起きたのはこのような時だった。健の眼は号外に釘付けだった。

  「上海天長節祝賀会椿事続報」
  「君が代吹奏終るや 閃光と共に轟く爆音」
  「犯人は式壇の傍らに潜む」
  「現行犯人は朝鮮人 関係一味六名逮捕」
  「白色五寸径の爆弾 負傷者は他にも十数名」
  「野村長官重傷 右眼は失明か 左小指は千切れる」
  「白川、植田の両将軍重傷」
  「北四川路付近に臨時戒厳令」
  「重光公使は全治四五ケ月 河端民団会長最も重傷」
  「壇上の主賓 バタバタ将棋倒し」


つづく
 

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