アジアと小松

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小松基地問題研究会

小説「蒼穹の月」(3)

2019年08月17日 | 尹奉吉義士
 小説「蒼穹の月」(3)    

                         小説であり、虚実こもごもであることを御了承下さい

(四)金沢(一九三二年十二月)
 そのころ、第九師団荒蒔義勝師団長から具体的な命令があり、根本荘太郎法務部大佐らは尹奉吉処刑の準備を着々とすすめていた。命令書には、次のように書かれていた。

   工兵第九大隊ハ作業小隊ヲ編成シ石川郡内川村三小牛山陸軍作業場東北端ノ一画ニ銃殺刑執行ノ場所ヲ設置スヘシ。ソノ要領ハ別紙略図ノ通リ。刑架ハ方三寸角、檜材トシ、地表三尺、地下埋没尺五寸。高サ二尺ノ位置ニ横三尺ノ同ジク角材ヲ本柱ト直角、十ノ字ニ装着スヘシ。右十字架ハ切リ立チ崖ノ二米前ナリ。サラニ切リ立チ崖カラ南西三十米ノ場所ニ軍用二間天幕二張リヲ建テ、刑架ナラビニ天幕ノアル地表ニワラムシロヲ敷クヘシ。以上ハ、十八日午後五時ニ修了ノコト。
   小隊ハ別途、方三寸角、高サ三尺ノ標柱一基、二寸五分角、高サ三尺五寸ノ木標一基、ナラビニ高幅二尺五寸、長六尺、厚サ五分、松材柩一基ヲ工作シ、同日午後五時ニ野田山陸軍墓地在金沢憲兵隊派遣分隊ニ手渡スヘシ。
   歩兵第七連隊ハ銃殺刑執行ノタメ一小隊二個分隊ヲ編成シ、十二月十九日午前零時、石川郡内川村三小牛山陸軍作業場ニ派遣、上海軍法会議ニ於テ死刑ノ判決ヲ受ケシ処刑囚・朝鮮忠清南道礼山郡徳山面柿梁里・無職平民・尹奉吉ノ陸軍銃殺刑ヲ執行スヘシ。執行要領、追ッテ後刻、現地ニ於テ指揮官ニ口頭指示スヘシ。(略)
   去ル四月二九日、上海新公園ニ於テ、出来セル投弾爆発事件犯人・朝鮮人・尹奉吉ハ十二月十八日午後五時二十九分、大阪発下リ急行列車ニテ北陸本線西金沢駅ニ下車、第九師団法務部西町拘禁所ニ護送収檻セシム。同犯人ハ収檻ノノチ、十九日午前七時、石川県石川郡内川村地内三小牛山陸軍作業場ニ於テ銃殺刑ニ処スルニ付キ、イササカノ不祥事ナキヨウ諸般、配慮賜リタキコト。委細軍事機密ニ亘ル件ニ付キ、詳細ハ追ッテ口頭、指示スヘシ。

この命令書には「大阪発の急行列車」とか「西金沢駅下車」など、意図的なフェイク情報が埋め込まれ、尹奉吉の移送計画をひた隠しにし、肝心なことは「口頭」伝達としているように、尹奉吉の処刑計画は厳重な軍事機密として扱われた。第九師団内部に、鶴彬のような反軍兵士の存在を警戒していたのである。
 根本大佐は大阪での打ち合わせのとおり、尹奉吉の受け入れ、衛戍拘禁所の点検・準備、処刑部隊の編成、処刑地・埋葬地の調査、在日朝鮮人の警戒など、こまごまと部下に指示した。。

軍命令
 処刑報告書作成のために、写真師の派遣を要請しなければならなかった。九師団には専属の写真班がおらず、民間の写真師のなかから、小池兵治、高桑五十松、今井義一を写真班に任命していた。根本大佐は情報漏れに不安があったので、金沢市内の写真師を避け、小池写真館の大聖寺町支店で主任技師をしていた健を指名し、十八日中には、機材を準備して九師団本部に来るように命じた。
 健は朝鮮人の銃殺刑に立ち会い、その最後を撮影することに激しく動揺した。
 一九二三年の関東大震災で六千人の朝鮮人が虐殺されてから、まだ十年も経っていなかった。日本人は忘れていても、朝鮮人は片時も忘れることはなかった。一昨年も、香林坊の電柱にベタベタとビラが貼られていた。

   今日ハ俺達ニトッテ忘レルコトノ出来ナイ大震災記念日ダ。七年前ノ九月一日ヲ思ヒ出シテ呉レ。…銘記セヨ我々労働者階級解放ノタメ一身ヲ投出シテ戦ッテ居タ多クノ同志ガ奴等ノタメ殺サレタ恨ミノ日ナノダ。…大地ヲ奪ワレサンザン搾取サレタアゲク自分ノ生マレタ国モ棄テ日本内地ニ働カサレニキタ朝鮮ノ労働者ヲ流言ト蜚語ヲ放ッテ何百何千ト虐殺サセタ日デナイカ。
   八月二九日ハ恨ノ日韓併合ノ日ダ!日本帝国主義ガ俺達朝鮮ノ兄弟ノ土地ト自由トパンヲ奪ッタ国辱恨ノ日ハ再ビヤッテキタ。兄弟諸君思ヒ起セバ今カラ二十年前ノ今日専政横暴極ハマル日本帝国主義共ハ朝鮮ブルジョアヲギマンシテ三千万円デ俺達朝鮮ノ兄弟二千万人ヲ奪ヒ取ッタノダ。ソシテ朝鮮ノ兄弟ノ自由モ仕事モ食モ、ミチャクチャニシテシマッタノダ!

 健は尹奉吉を処刑する側に立つことにたじろいでいた。旧知の俊雄に相談することにした。俊雄の祖父は加賀藩家老本多家に出入りしていた石材・瓦商人だった。父の代には、野田山市民墓地の造成に係わるなど、日清戦争の頃までは、上位百五十人のなかに入る金沢の高額納税者だったが、本多家の負債を押しつけられて、家も、石切場も全てを失い、今では、借家住まいで、アユやイワナ採りの網を編んだり、三小牛山一帯を歩きまわって、きのこやクルミを採取して料亭に卸していた。医王山に登って薬草や薬石を採取し、雪が降ると小動物を捕獲するためのわなを仕掛けに山に入った。
 俊雄は犀川の堤防沿いに建てられた朝鮮人小屋に入り浸って、トンチャンを肴にして酒を飲んだり、ばくちで負けては家財道具を持っていかれたりしていた。貧しいが、型にはまらない自由な雰囲気が漂っていた。
 健は寺町台の桜畠に向かい、戸を叩いた。粗末な借家だったが、上品な老婦人が顔を出した。奥の方から、
「だれや。」
「おれや、おれや、健や。」
「おお、入れや。」
「つまみを持ってきたぞぃ。」
 健はいかの黒作りを出した。
「おお、寒い、炬燵に入れてくれや。」
 母が炬燵布団の裾をまくって、身を屈めて炭火をかきおこした。
「四月二九日の天長節の事件を覚えとるか。」
「ああ、上海の爆弾事件か。」
「そや、朝鮮人がやったというのは知っとるやろ。」
「そりゃ、誰でも知っとるやろ。今更、なんや。」
「金沢で処刑されることになったんやが…。」と、健は尹奉吉を撮影することになったいきさつを話した。
 俊雄は結核で曲がった背骨をグイッと伸ばし、ため息をついて、
「今さらどうもならんが、朝鮮人にも知らせとく方がいいかな。最近、特高がやかまして、中心メンバーは地下に潜っとるし、まあ、尹萬年なら連絡とれるやろ。」

内灘村の人びと
 金沢の北方、日本海と河北潟の隙間に内灘村があった。家々は砂丘地のヘリにへばりつくように建っていて、海岸から吹き上げられた砂地なので、稲はもちろん畑もろくに作れない貧しい村だった。男たちは日本海や河北潟で小魚を捕り、女たちは金沢にまで出かけて売り歩いていた。
 村の青年たちは夢を抱いて朝鮮や満州、樺太に渡っていった。権二もその一人だった。権二は津幡農学校を卒業し、内灘村で教員をしていたが、一九二五年に不二土地株式会社の農業指導員として、朝鮮に渡った。権二の行く先々で小作争議が起きていた。内灘村は貧しいと思っていたが、朝鮮の村々は比較にならないほど貧しかった。
 農場の収穫期も終わり、師走にはいって、権二は久しぶりに内灘村に戻り、村の若い衆と一杯飲み屋で、七輪を囲んでいた。「この、貧しい内灘村をどうするか」が肴だった。
 「金沢第七連隊赤化事件」のことが話題になった。鶴彬は『無産青年』を隊内に持ちこみ、兵士たちに回覧して、治安維持法違反として軍法会議にかけられ、懲役二年の判決を受け、まだ大阪陸軍衛戍監獄で服役していた。
 鶴彬は隣村の生まれなので、朝鮮にいた権二もよく知っていた。
 だいぶ酒がまわり、満州事変やら上海事変に話が移り、天長節に起きた上海爆弾事件が話題に上った。雰囲気が一変し、鶴彬のたたかいに理解を示していた青年たちは、口々に朝鮮人を非難しはじめた。「わしらの九師団に手をかけるやつなんか許せるか」「朝鮮は日本の植民地じゃないか、煮て食おうと焼いて食おうと勝手だ」「あんなやつはノコギリでひいちまえ」と、排外主義が唸りを上げていた。
 若い衆の勢いに、権二はたじたじになったが、朝鮮人に同情的だった。

あっちはひどいもんや。朝鮮人が作ったもんは、日本人が全部奪っとる。田んぼも畑も全部とられて、暮らせんようになって、日本や満州に流れてきとるんや。百人や二百人やないんやぞ。何万人も、何十万人もの朝鮮人が泣く〳〵故郷を離れていくんや。そんななかから、尹奉吉のようなもんが出るがはあたりまえやないか。
   朝鮮に残ったもんは日本人地主の小作になって、収穫の半分が日本人にとられるし、肥料代、水税(用水代で、会社が半分、小作が半分負担)を納めんならんがや。耕牛を持つ資力のない小作人は、春耕時の耕牛の借り賃やら、端境期に会社から借りた満州粟の代金などを差し引かれると、一粒の米も残らん状況なんや。
   しかし、朝鮮の農民も黙っとらん。春には「苗を作らん」、秋には「刈り取りをせん」といって、肥料代、水税、耕牛の使用料を安くしてくれと要求するんや。
   わしの前任地は鴨緑江(アムノクカン)の近くやったから、秋から冬にかけて、直径二、三センチもの雹(ひょう)が降って、これが収穫前にやられると、稲の茎は折れるし、モミはバラバラに落ちてしまうし、落ち穂は拾えるけど、落ちたモミは拾えんやろ、あそこは雹が降ったらおしまいなんや。朝鮮人はそんななかで、必死にたたかいながら暮らしとるんや。

尹萬年
 店の片隅で、焼酎を片手に、こんかいわしをつつきながら、権二の話をじっと聞いている青年がいた。忠清南道青陽郡青陽面出身の尹萬年だった。今、権二が配属されている農場はその隣村の江景邑にあり、尹萬年は度々土方仕事に来ており、権二の紹介で一九二九年に金沢に流れ着いていた。
 尹萬年は末水道工事の事件以来、特高に付けまわされていたが、なぜか今年の師走に入ってからは、特に執拗で、仕事に就いてもすぐに特高の介入で、やめさせられていた。この日は、権二に一夜の寝床とカンパを頼みに、内灘村までやって来ていた。

 俊雄は方々手を尽くしたが、尹萬年にはなかなか連絡がつかなかった。権二から連絡が来て、犀川べりの法島町に潜り込んでいることがわかった。
 朝鮮人が住んでいる集落はどこもかしこも厳重な警戒下におかれていた。俊雄は酒瓶を抱えて、特高の監視をすり抜けて、堤防沿いに建つバラックの小屋に入った。かすかに温もりのあるオンドルが俊雄を待っていた。健から聞いた話を一通りすると、尹萬年は声を上げて泣き出した。
 尹萬年は尹奉吉が住む徳山面から二十キロと離れていない青陽面の生まれだった。一九二七年十一月に、新幹会(シンガネ)礼山支部が発足したとき、尹萬年も駆けつけた。尹奉吉と同じ二十歳の同志だった。
 新幹会は六つの課題を掲げていた。①農民教育に積極的に努める、②耕作権を確保して外からの移民を防止する、③朝鮮人本位の教育を確保する、④言論、集会、出版の自由を確保するための運動を展開する、⑤染めた服を着用し、⑥断髪を施行することにより、白衣と網巾を廃止することであった。
 尹奉吉は夜学運動の活性化を提案した。夜学の学習内容を充実させ、有効に活用すること。読書を活性化すること。啓蒙講演会や討論会を開催し、学習を評価し、意見を発表する場を設けることだった。
 尹奉吉は一九三〇年に二三歳の時に村を離れ上海に向かい、尹萬年はその前年に日本に渡り、金沢で仕事に就いた。日本に渡ってきた朝鮮人は、一九三二年には全国で三九万人、石川県では千六百人を超えていた。朝鮮人は差別と収奪をはね返してたたかう以外に、生きることができなかった。尹萬年も同じ道を歩んでいた。

 朝鮮の青年たちは、尹奉吉や尹萬年のように、厳しい曲がり角に立たされていた。数年前に、「日本語が上手なのに、朝鮮語を知らない息子」に怒りをぶちまける『戦闘』(朴英熙)、「朝鮮が疲労困憊していること」を嘆き憂える『火事だ!火事だ!』(金基鎮)、「白衣人(朝鮮人)の苦しみの中へ」と呼びかける『地の底へ』(趙抱石)などの抵抗文学が発表され、青年たちはむさぼるように読み、涙を流し、怒りをぶちまけていた。
 満州事変が起き、日帝の言論弾圧は抵抗文学を萎縮させ、「不平は不平のまま埋めておこう。矛盾は矛盾のまま目を閉じることにしよう」という投書が『朝鮮日報』に載り、金珖燮は「鳴こうにも鳴けず 飛ぼうにも飛べない 私の小さな鳥 木の葉の陰もなく 荒れた山奥をさまよう」と書いて、後退を余儀なくされていた。
 しかし、このような状況の下でも、鄭寅国は「錠のかかった閂をはずす大きな力が いつの日かこの地に湧き出るのか 矢をつがえ 蒼穹にかかるあの月を射落とす若人出でよ! 凍てついたこの生の場に太陽の火玉を射落とす 大いなる力を生ましめん」と詠み、青年たちを奮い立たせていた。

尹奉吉、金沢へ
 十二月十八日、一般乗客を装った目つきの悪い男たちが、車両のなかを行ったり来たりしているなかで、尹奉吉は、レールの継ぎ目で、ゴトン〴〵と鳴る音を聞きながら、金沢に向かう列車にゆられていた。それは死への時を刻んでいるようだった。
 列車は下車予告の西金沢駅も直近の金沢駅も通過し、十六時三五分森本駅に滑りこんだ。尹奉吉は密かに軍用車に乗せられ、南下し、浅野川の枯木橋を渡り、石垣だけが残る大手門を抜けて、第九師団衛戍拘禁所の前に止まった。そこは第九師団本部から数十メートル離れた、鬱蒼とした木々に囲まれていた。高さ五メートルほどのコンクリート製のガッチリした塀に囲まれた敷地内には、四室の監房と監視室があるこぢんまりした建物があった。「七聯隊赤化事件」で逮捕された鶴彬が判決までの半年間、拘禁されていたところでもある。

 あと、半日の命かと思うと、尹奉吉は眠れなかった。夜半にはグンと気温が下がり、寒暖計は摂氏六度を指していた。徳山面の冬も寒かったが、金沢特有の湿寒が、毛が抜け、スカスカになったカーキ色の毛布を透して迫ってきた。家を出てから二年半が過ぎていた。尹奉吉はとめどなく流れる涙を拭おうともせず、それほど遠くないその日のことを思い出していた。
   一九二九年ノ秋、全羅南道ノ光州デ学生ガ立チアガッタ。私ニハ衝撃ダッタ。光州高等普通学校ノ民族衝突事件ノ知ラセヲ聞キ、タギル血ヲ抑エルコトガ出来ナカッタ。続イテ京城ノ普成高等普通学校ノ学生タチガ万歳ヲ叫ンダ。日本帝国打破万歳! 弱小民族ノ解放万歳! 奴隷的教育ノ撤廃万歳! アア! 胸ガスットスル知ラセデハナイカ!

 年が明け、尹奉吉の気持ちは急速に上海臨時政府に傾いていった。
   私ノ鉄拳デ敵ヲ即刻討チ滅ボス覚悟 二十三歳 歳月ガ経ツニツレ我等ヘノ圧迫ト苦痛ハ増加スルノミ 私ハ覚悟ヲシタ 痩セ細ル三千里ノ山河ノ我ガ国ヲ黙ッテ見テ居ル事ハ出来ヌ 水火ニ落チタ人ヲ泰然ト見テイル訳ニハイカヌ 是ニ対スル覚悟ハ他ナラヌ私ノ鉄拳デ 敵ヲ即刻粉砕スル事ダ 此ノ鉄拳ハ棺桶ノ中ニ入レバ 無用ノ代物デアル 老イレバ無用ダ 今冴エテ私ニ聞コエルノハ 上海臨時政府デアル 多言無用
 三月六日、鶏鳴を聞くころには、尹奉吉は亡命の覚悟を固めていた。

 尹奉吉が冷たい床に毛布にくるまって、ふるえていたころ、俊雄と尹萬年は炬燵を挟んでお酒を酌み交わしていた。尹萬年がぽつりぽつりと話していた。
韓国ヲ併合シタアト、日本ハ強引ニ土地調査事業ヲススメタ。ソレハ朝鮮人ノ農地ヲウバイ、税金ヲハラワセ、朝鮮人ノ動静ヲサグルタメダッタ。土地ヲシラベルトイッテハ、剣ヲサゲ、銃ヲモッタ巡査ガ、田畑ハモチロン、山ヤ谷ニタチイッタ。ジブンノ土地デモ、申告シナカッタラ、イツノマニカ朝鮮総督府ノモノニナッテ、小作ニサセラレタ。土地ヲウバワレタ農民ハ、タダボウゼント見マモルシカナカッタ。
二十歳ノコロニ、尹奉吉トトモニ新幹会ニ加ワワリ、農民ノ自立ヲハカッタガ、日本人ニ農地ヲトラレテイテハ、到底自立ナドデキルワケガナカッタ。尹奉吉ハ上海ヘイキ、ワタシハ日本ニ向カッタ。
 日本ニキテモ、ケッキョク土木作業シカナクテ、ソレモ日本人ノ半値デ、コキツカワレルダケダッタ。金沢ニキタバカリノ一九二九年十一月、金沢末地区ノ水道工事現場デ事故ガオキ、朝鮮人二人、日本人一人ガ圧死シタ。
日本人ハタダチニ救出サレ、看護師ツキノ乗用車デ病院ニハコバレテ、手当ヲウケタガ、朝鮮人ハアトマワシニサレ、トラックノ荷台ニノセテハコボウトシタ。人間アツカイジャナカッタ。
 尹萬年は、話しているうちに激高してきた。「日本語は巧みなり」と特高の折り紙付きだったが、いつの間にか韓国語になっていた。
物心ガツイテカラ、イツモコウダッタ。米ヲツクッテモ、ゼンブ総督府ガモッテイクシ、日本ニキテケンメイニハタライテモ、朝鮮人ノ命ハ、ソコラノイシコロヨリモカルイジャナイデスカ。
明日、尹奉吉ガ処刑サレルナンテ、ドウシテユルセマスカ。私ハ朝鮮人ダ。私ハ尹奉吉ノチング(親友)ダ。私ノチャクベ(相棒)ダ。必ズ思イ知ラセテヤル。

 尹萬年は酔いつぶれて、いびきをかいて寝てしまったが、俊雄の頭は冴え、明日のことを考えると寝入ることはできなかった。

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