M・Sさんを偲ぶ
2月4日、M・Sさんが亡くなりました。思い出せば、切りがありません。
はじめてお会いしたのは、M・Sさんがファントム裁判(1975年~)の第1次原告になられて(たったの12人、今はもう、原告は何千人です)、茨の道を切り開いたしばらく後でした。
M・Sさんは1921年に生まれ、中国戦線に配属され、敗戦を迎えました。戦地でのことは、あまり語りませんでした。小松基地問題に取り組み、北富士、三里塚、ヤスクニ行動などに出かけることは、その反省からだと思っていましたので、特に聞きませんでした。
2000年にN・SさんとM・Sさんの『兵戈無用―真宗門徒から、21世紀へのメッセージ』を発行しました。そのなかに、「なぜ、私は宗教を求めるのか」(1995年)、「昭和天皇に戦争責任あり」(1989年)、「帝国主義と排外主義」(1992年)などが収められ、M・Sさんの世界観を見ることができます。500冊全部売れて、手元には2冊しかなく、私の宝物です。ここに、M・Sさんを偲んで、「昭和天皇に戦争責任あり」を再録します。
個人的には、一緒に北海道を旅し、積丹半島のニッコウキスゲの群生には、二人とも見惚れました。自宅の庭には2本の梅の木があり、実をいただいて梅干しを作りました(とてもいい梅の実でした)。
私の母はM・Sさんが住む佐美近くの安宅生まれで、小松弁で、よく「○○○、なりゃこそ(おかげで)」と、言っていました。今、私は、「Mさん、なりゃこそ」とつぶやいて、別れたいと思います。
「昭和天皇に戦争責任あり」(1989年)
<象徴天皇制について>
私が天皇について考えることは、もちろん天皇ヒロヒトということもありますが、そのまえに天皇制そのもの、とりわけ象徴天皇制についてひとこと述べたいと思います。
象徴ということ自休はっきりしないわけですが、たとえば日本国・国民に象徴がいるとしても、世襲性の特定の家に生まれた人間を象徴にすること自休、非常に不合理なことだと思います。
特定の人間を国家・国民の象徴にすれば政治的に利用されるおそれが十分にあるわけで、かりにどうしても象徴が必要だとするならば、例えば桜の花にするとか、富士山にすればよいと思うのです。そうすれば日本人にとっても外国人にとっても納得がいくのではないでしょうか。だいたい、桜の花や富士山を政治的に利用しようとしても、利用しようがないわけですから。したがって、私は象徴天皇制はまちがっていると思いますし、廃止しなければならんと思っています。
<天皇の戦争責任は明白>
そのうえで、天皇ヒロヒトの戦争責任ということについてですが、アジアなど諸外国からも批判をうけているし、日本国内でもいろいろ論議が起こっています。だいたいにおいては良心的に考えている専門家の間では、明らかに戦争責任はある、という意見が大勢をしめています。
戦前は明治憲法下であったわけですが、そこでは統師権は天皇に属していました。天皇を擁護する側の人たちは「統師部というところがあって、補弼をおこない、天皇はただそれを承認していたにすぎないから、天皇に戦争責任はない」という言い方をしています。しかし統師部というところは、作戦をたてたり、いろいろ討議をかわす機関にすぎないのであって、統師権のある天皇が最終的な決断をしたことは明白な事実です。したがって、天皇は人間的にも法律的にも責任は免れないわけです。
またこれは賛成の人も、反対の人も一致した見解ですが、天皇ヒロヒトという人は旧憲法を護持することを、最高至上の生涯の課題として貫いた人物です。しかし、この旧憲法を守るということは、とりもなおさず国休を守るということなのですが、この国体たるや実に反人民的なものであったわけです。それが反人民的なものであることを知っていたか、否かは別にしても、間違ったことを自分の生涯の指針にしていたという、重大な責任を免れることはできません。
もし知らなかったとすればなおさらのこと、最高責任者であるという立場からいって、無知自体が罪であって、責任は重いといわねばなりません。
<過ちを繰り返さないために>
私たちはこうして天皇の戦争責任を追及しているわけですが、私自身も兵士の一人として中国戦線に行っていました。私たちは被害者であるけれども、同時に天皇の手先になって働いた人間であることも事実です。もちろんそれが間違ったことであることを知らなかったのではありますが、さきほども述べたように、だからといって無実の理由にはならないとおもいます。また、人間の歴史的・社会的存在ということを考えると、戦後生まれの若い人たちにしても、日本人である以上、アジアの人々にたいして責任は感じなければならないと思います。
戦後、西ドイツの首相を務めたワイツゼッカーという人の有名な国連演説があります。ワイツゼッカーは戦争中ナチスに協力したわけでもなく、むしろナチスに反対して投獄された人なのですが、次のように言っています。「ナチスが犯した犯罪は、それを許したドイツ国民もひとしく負うべき責任として、謝罪しなければならない」と。
ヒロヒトに戦争責任ありと、あくまで追及しつづけることが、とりもなおさず私自身がヒロヒトに協力した責任を問いつづけることだと思っています。私たちが犯した大きな過ちを、今後二度とくりかえさないために、どこまでも戦争責任を追及していかなければならない、私はそのように確信しています。
2月4日、M・Sさんが亡くなりました。思い出せば、切りがありません。
はじめてお会いしたのは、M・Sさんがファントム裁判(1975年~)の第1次原告になられて(たったの12人、今はもう、原告は何千人です)、茨の道を切り開いたしばらく後でした。
M・Sさんは1921年に生まれ、中国戦線に配属され、敗戦を迎えました。戦地でのことは、あまり語りませんでした。小松基地問題に取り組み、北富士、三里塚、ヤスクニ行動などに出かけることは、その反省からだと思っていましたので、特に聞きませんでした。
2000年にN・SさんとM・Sさんの『兵戈無用―真宗門徒から、21世紀へのメッセージ』を発行しました。そのなかに、「なぜ、私は宗教を求めるのか」(1995年)、「昭和天皇に戦争責任あり」(1989年)、「帝国主義と排外主義」(1992年)などが収められ、M・Sさんの世界観を見ることができます。500冊全部売れて、手元には2冊しかなく、私の宝物です。ここに、M・Sさんを偲んで、「昭和天皇に戦争責任あり」を再録します。
個人的には、一緒に北海道を旅し、積丹半島のニッコウキスゲの群生には、二人とも見惚れました。自宅の庭には2本の梅の木があり、実をいただいて梅干しを作りました(とてもいい梅の実でした)。
私の母はM・Sさんが住む佐美近くの安宅生まれで、小松弁で、よく「○○○、なりゃこそ(おかげで)」と、言っていました。今、私は、「Mさん、なりゃこそ」とつぶやいて、別れたいと思います。
「昭和天皇に戦争責任あり」(1989年)
<象徴天皇制について>
私が天皇について考えることは、もちろん天皇ヒロヒトということもありますが、そのまえに天皇制そのもの、とりわけ象徴天皇制についてひとこと述べたいと思います。
象徴ということ自休はっきりしないわけですが、たとえば日本国・国民に象徴がいるとしても、世襲性の特定の家に生まれた人間を象徴にすること自休、非常に不合理なことだと思います。
特定の人間を国家・国民の象徴にすれば政治的に利用されるおそれが十分にあるわけで、かりにどうしても象徴が必要だとするならば、例えば桜の花にするとか、富士山にすればよいと思うのです。そうすれば日本人にとっても外国人にとっても納得がいくのではないでしょうか。だいたい、桜の花や富士山を政治的に利用しようとしても、利用しようがないわけですから。したがって、私は象徴天皇制はまちがっていると思いますし、廃止しなければならんと思っています。
<天皇の戦争責任は明白>
そのうえで、天皇ヒロヒトの戦争責任ということについてですが、アジアなど諸外国からも批判をうけているし、日本国内でもいろいろ論議が起こっています。だいたいにおいては良心的に考えている専門家の間では、明らかに戦争責任はある、という意見が大勢をしめています。
戦前は明治憲法下であったわけですが、そこでは統師権は天皇に属していました。天皇を擁護する側の人たちは「統師部というところがあって、補弼をおこない、天皇はただそれを承認していたにすぎないから、天皇に戦争責任はない」という言い方をしています。しかし統師部というところは、作戦をたてたり、いろいろ討議をかわす機関にすぎないのであって、統師権のある天皇が最終的な決断をしたことは明白な事実です。したがって、天皇は人間的にも法律的にも責任は免れないわけです。
またこれは賛成の人も、反対の人も一致した見解ですが、天皇ヒロヒトという人は旧憲法を護持することを、最高至上の生涯の課題として貫いた人物です。しかし、この旧憲法を守るということは、とりもなおさず国休を守るということなのですが、この国体たるや実に反人民的なものであったわけです。それが反人民的なものであることを知っていたか、否かは別にしても、間違ったことを自分の生涯の指針にしていたという、重大な責任を免れることはできません。
もし知らなかったとすればなおさらのこと、最高責任者であるという立場からいって、無知自体が罪であって、責任は重いといわねばなりません。
<過ちを繰り返さないために>
私たちはこうして天皇の戦争責任を追及しているわけですが、私自身も兵士の一人として中国戦線に行っていました。私たちは被害者であるけれども、同時に天皇の手先になって働いた人間であることも事実です。もちろんそれが間違ったことであることを知らなかったのではありますが、さきほども述べたように、だからといって無実の理由にはならないとおもいます。また、人間の歴史的・社会的存在ということを考えると、戦後生まれの若い人たちにしても、日本人である以上、アジアの人々にたいして責任は感じなければならないと思います。
戦後、西ドイツの首相を務めたワイツゼッカーという人の有名な国連演説があります。ワイツゼッカーは戦争中ナチスに協力したわけでもなく、むしろナチスに反対して投獄された人なのですが、次のように言っています。「ナチスが犯した犯罪は、それを許したドイツ国民もひとしく負うべき責任として、謝罪しなければならない」と。
ヒロヒトに戦争責任ありと、あくまで追及しつづけることが、とりもなおさず私自身がヒロヒトに協力した責任を問いつづけることだと思っています。私たちが犯した大きな過ちを、今後二度とくりかえさないために、どこまでも戦争責任を追及していかなければならない、私はそのように確信しています。