アジアと小松

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小松基地問題研究会

一九七八年 出島権二『朝鮮の苦い想い出』

2019年11月05日 | 内灘闘争
一九七八年 出島権二『朝鮮の苦い想い出』

 ここに紹介する『朝鮮の苦い想い出』は、出島さんも、奥さんもお元気で、朝子さんにも加わっていただいて、朝鮮での生活や出来事についてお聞きし、書き留めておいたものです。出島さんが始めて勤めた農場で巻き起こった小作争議を中心にしてまとめたものです。

内灘から脱出
 私は津幡農学校を卒業してから、内灘小学校で代用教員をやっておりました。そのときに、石川県会議員(当時)の竹野君や金沢火電と最も激しくたたかった清水先生を教えました。いま富山大学の学長になっている林さんも、当時私と一緒に教えていました。

 当時は二〇歳になるかならないかの若造だったが、内灘村を見ていて「ここはだめだ、自分がだめになる」と思って村を出ようと考えていました。このころは政府の朝鮮植民政策が推進されていて、さかんに「朝鮮へ行こう」と宣伝され、朝鮮に展望があるような気持ちをもっていました。

 それに私は農学校出身で、農業技術を仕事に生かせると思い、朝鮮で農業経営をしている「不二土地株式会社」に勤めることにしました。

 一九二七年、妻と一緒に行こうとしたのですが、家族に反対されました。「跡取り息子が朝鮮に定住されてはかなわない。一人で行かせれば、一年もすれば嫌になって戻ってくるだろう」ということで、単身朝鮮にわたりました。

 だが翌年六月、妻を迎えに行き、朝鮮に滞在すること二〇年、敗戦後内灘に戻ってきました。朝鮮での二〇年間、土地会社の管理人として、朝鮮人小作人の管理をしてきたのですが、このことは私にとって一体何だったのか問い返さねばならないと思うようになりました。有事立法だとか元号制復活が取り沙汰されているからこそなおさらそうです。

定租・検見・刈分
 まず最初の仕事に着いた所は平安北道・龍川郡・府羅面にある不二農場でした。約四千町歩の大農場で、小作人は二〇〇〇人以上いました。ここで五年ほど働きました。最初の給料は四〇円で、安いと思いましたが、米、光熱費、暖房費は無料でしたし、朝鮮では肉も野菜も非常に安かったので、生活は思ったより楽でした。

 中国料理店にでかけて、三人で一鍋注文すると、お酒もついてきて二円ぐらいでした。これで腹一杯になったことを覚えています。

 私の仕事は小作地の管理でした。小作料の取り方には三種類あって、「定租」「検見」「刈分」です。「定租」とは地主と小作人が協議のうえ、すでに小作料の基準が決まっていて、豊凶にかかわりなく一定の俵数を地主に納めることになっています。

 「検見」は穂が頭を下げるころ、小作地を見極めて、「今年は、XX俵ぐらいお収穫があるから、その半分のYY俵を小作料とする」という具合に両者で田を見ながら刈り取りのまえに合意のもとで決められます。しかしこの「検見」は非常に高度な技術を要します。穂の具合は朝、昼、夕方でそれぞれ見栄えが違います。「検見」をきちんとやれなければ一人前の農場責任者にはなれません。私も六〜七年はこいつに一番苦労させられました。

 一九七八年九月に富山で催された「北陸住民運動交流会」に参加するために黄金色の砺波平野を横切る高速道を走りましたが、車上からでも一見して今年の作柄がわかります。

 刈り取り前の「検見」で農場側と小作人の意見がどうしても合わないときは、最後の方法として「刈分」を行ないます。朝鮮の小作は一戸当たりほぼ二町歩もあるので、一日で「刈分」をするためには、小作側は二〜三十人の人夫を雇わねばならず、この経費の負担は小作にとって非常に重く、小作泣かせとなります。

 早朝五時ころから作業をはじめ、刈り取り、脱穀まで終えて、一斗升で量って二つに分けて決着をつけます。農民の言い分が正しかったときは小作人にかかった余分の費用をみて、農場側の取り分を少なめにすることが習慣になっていました。

小作争議勃発
 一九二九年には米価が大暴落しまして、朝鮮の農民は大打撃を受け、生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされました。私が朝鮮に渡ってまだ四〜五年しかたっていないころで、担当の小作地を中心に大きな小作争議が起きました。この府羅面の不二農場は四千町歩、二千人の小作、社員は日本人、朝鮮人あわせて百人ぐらいのそうとうに大きな農場でした。この農場の管理事務所のすぐ近くに農民組合の事務所があって、事務員が四〜五人働いていました。ここの親方はどこかの専門学校を卒業したインテリで、思想的に芯の強いものをもっていました。

 通例小作人は全収穫量のうち半分を小作代として農場に納めます。さらに肥料代、水税(用水代=農場が半分、小作が半分負担)を納めねばなりません。また小作人は貧困で耕牛を持てなかったので、春耕のときの耕牛の借り賃、また小作人はたいがい自分の食べる米さえないのが普通で、春ころになると米が底をつき、やむなく農場に満州粟を借りねばならないのです。これらの借金も含めて全部取り入れ時に米をお金に換算して差し引かれるのです。

 この年は米の大暴落によって米価が低く、肥料代、水税、その他を米価に換算して差し引くと、小作人には一粒の米も残らないというのが現実でした。

 当時、朝鮮では農民組合の指導のもとに、毎年春秋二度の小作争議をたたかっていました。春は「苗代を作らない」ことを武器にして「肥料代を半分にせよ」、「水税や耕牛の使用料を安くせよ」という要求をつきつけてきました。苗代の時期は限られており、これを外すとその年は米ができないことになり、農場にとってよりも小作人にとって大変なたたかいでした。

 秋は「刈り入れをしない」という戦術を使いました。ここは朝鮮でも北の方にあり、秋から冬になるのがすごく早い地方でした。だから雹(ひょう)の降る時期も比較的早く、収穫前にこれにやられると農作物は全滅してしまいます。この地方の雹は直径二〜三センチもあり、頭にあたると痛くてたまらない代物です。着ているものを頭にのせて防ぐのが精一杯でした。

 これが十分も二〇分も降ると、稲の茎が折れるだけではなくモミがバラバラに落ちてしまいます。落ち穂を拾うのはまだ出来ますが、落ちたモミはとても拾えません。ですから農民にとっても農場にとっても雹の降るまえに刈り取ることが必要なので、小作人が刈り取りを拒否するという戦術は極めて厳しくかつ有効なたたかいでした。

満を持しての決起
 この年の小作争議は私の受け持ちの小作地で突破口が開かれました。農民組合の指導によってたたかいの拠点として、農場管理事務所から最も遠くはなれた、最も不便な小作地を選んだのです。私の受け持ちの小作地は事務所から一里以上離れているのです。

 その日の前日から上司は私の担当地区で争議が起きそうだと察知しており「今日は出島のところでいさかいがありそうだから、一人では心配なので少し応援を出そう」といって五〜六人を加え、刈り取りの監督に向かいました。

 小作人等はもう二〜三百人も集まって刈り取りをしていました。午後一時頃には田の半分だけが刈り取られ、脱穀まで終ってしまいました。普通ならどんなに早くとも四時頃までかかる量なのに。しかし残りの半分は手もつけられていません。

 小作人は脱穀の終ったモミをさして「これだけを小作料として納める。今年は米価が暴落しているので肥料代、水税などを来年まわしにして欲しい。認めないなら残りは刈り取らない。どうせ刈り取っても、全部持っていかれるのだから」といってきます。

 農場側は「それはできない。残りを刈り取って肥料代、水税などを払え」と全く応じません。農民は「それでは明日から食うものがなくなる。こんなに米代が下がっては生活もできない」などと、口々に言い始めるが、上司はいっこうに聞き入れようとしません。

 そのうちに日本人の若いものが小作人にたいして罵声を浴びせ、手をかけたのをきっかけにして、現場は大乱闘になりました。私は「こりゃあ、まずい」と思って、その場をこっそり抜け出し、自転車に乗って管理事務所にかけつけました。そこにはすでに巡査が待機しており、すぐに現場へ向かいました。さらに駐在所にも連絡して、四〜五人の応援をお願いしました。

 私もすぐ後をおって駆け付けたのですが、さきに行った巡査はもう袋だたきにあい、縄でくくられていました。上司はと見れば、頭から血を流して倒れています。あとで知ったのですが、上司は一斗升を投げ付けられ、頭に当たって気を失ったということです。

農民の勝利
 ところが、あとから駆け付けてきた、二七〜八歳の前田巡査がピストルを抜いて発射しようとしたのです。前田巡査の近くにいた婦人が必至になってピストルの紐にぶらさがって発射を防ぐ。前田巡査は婦人を地面にたたきつけるように何回も何回も投げ付けたところ、婦人は口から泡を出して死んでしまいました。

 朝鮮の北部は十月にもなると、地面は氷のように固くなるのです。ここにいたって、農民は怒りを前田巡査に集中し、袋だたきにしました。私はどうしたらよいかわからず、ただおろおろしていました。

 社員の一人がスキをついて管理事務所からさらに一里ぐらいさきの龍岩浦警察署に駆け込んで応援を頼みました。ところがここには留守番が一人いるだけで、何かの用事で全員が本署に行っているということです。

 本署は平安北道・新義州市にあって、そこから農場までトラックでとばしてきても二時間はかかります。

 どれだけ待っていても音沙汰がありません。夕方になって、遠くからパンパンとはじけるような鉄砲の音がします。余所でも何か起こったのかとおもっていると、それがだんだんとこちらに近づいてきて、やがてトラックが見え、三〜四〇人の武装警官が威嚇射撃をしながらやって来たのです。

 三百人を越えるほど集まっていた農民は、すでに波がひいたように分散し、現場には誰一人残っていません。私達は警察に守られて管理事務所に戻り、ケガをした上司を病院に運び込みました。

 翌日争議の現場へ行ってみると、小作米はそのまま残されており、農民組合の統制の取れている様子と朝鮮人の凡帳面さ、真面目さに感心しました。その後の話しあいで「小作料以外は一年待つ」という結論で、小作人の勝利が確定しました。

 朝鮮人農婦を虐殺した前田巡査は農民から告訴され、裁判になりました。しかし日本人の「前田巡査がやったのか、誰がやったのかわからない」という証言が採用され、前田巡査は刑罰を免れました。私自身も、事実をはっきりと見ておりながら、曖昧な証言をして、前田巡査や私自身をかばうことに一生懸命でした。いま振り返ってみて、自分自身が惨めで、腹立たしくて仕方がありません。

 戦前の朝鮮支配はこのように、官民一体の差別、抑圧、収奪のうえに成り立っていたのです。

地上げによる土地強奪
 このように朝鮮人が明日食べるものがあるかどうかの瀬戸際に立たされているとき、私達一家はどのような暮しをしていたのか。妻はその頃をふりかえって「殿様のような生活だった。日本人に貧乏人がいるなんて考えられなかった。だいたい明日食べる米がないなどということは想像すら出来なかった。会社の倉庫には何年食べてもなくならないぐらいの米がドッサリあったから。それに日本人で女中を使っていない家は一件もありませんでした。当初女中を使わずに暮そうとしたら、みんなに笑われたくらいです」と言っているようなものでした。当時わが家では女中三人、作男一人を雇っていまして、四人の給料として二〇円弱を支出していました。

 私が勤めた不二土地株式会社のような土地会社は朝鮮全土にずいぶんありました。平安北道にいたころ、近くに前田農場というのがあり、加賀の殿様が関係する農場かと聞いてみたら、そうではなく尾張出身のひとが経営していました。九州の細川男爵が経営する農場や石川県農場株式会社というものもありました。これは県営ではなく、金沢十間町の中島徳太郎氏が石川県内の財閥に呼びかけて資金を集め、朝鮮の土地を買い集め農場経営に乗り出していたのです。そこの農業技術者は石川県人だけで、八〜九人はいたはずです。

 どうしてこんなに朝鮮の土地が日本人の手に渡ったのでしょうか。「韓国併合」の後、日本政府は朝鮮全土の土地を調査して地番の確定作業をおこないました。これは朝鮮人から土地を取り上げる策略だったのです。

 日本から大量に送り込まれた測量士にはきちんと経験のあるひとがいなくて、朝鮮へ来る直前に十日間ほど講習を受けた、にわかづくりのものでした。こんないいかげんな「測量士」にまともな測量ができるでしょうか。地番なんてメチャクチャなものでした。私が菅理していた農場でも台帳には八百坪となっているのに、実際に歩いてみると三千坪は下らないところがありました。

朝鮮人民に「天皇制」強要
 朝鮮では村のことを面と呼びます。しかし私の二番目の勤務地は全羅南道・全州郡・東山村といい、この通例を破っています。なぜ「村」となっているのか。かって三井か三菱の財閥がここに農場を経営していて、その主人の画号が「東山」だったことからここを「東山村」と名づけたそうです。

 このことは朝鮮人の名前を日本名に強制したこととあわせて、日本人がいかに朝鮮の文化や歴史を無視し、ねじ曲げてきたかを示しております。また朝鮮支配に神社が一役も二役もかっていました。

 日本とは歴史も風土も宗教も異なっている朝鮮人に国家神道を強制しようと、朝鮮各地に神社や嗣(ほこら)を次々と建てていました。私が敗戦を迎えた忠清南道・論山郡・江景邑にも小さな祠があり、これは十月に日本へひきあげるまでに朝鮮人自身の手で燃やされました.当然だと思います。

 一九四三年から江景邑に住んでいたのですが、近くに手取川ほどの錦江が流れており、これをさかのぼると扶余という町がありました。天皇政府はここに扶余神社を造ろうと計画し、そのためにわざわざ台湾から巨木を取り寄せて、錦江の岸に積み上げられていました。また扶余神社を造るためにのみ、江景邑に製材所を作るという熱の入れようでした。

 これは完成しないうちに敗戦を迎え、その後どうなったかわかりません。当時軍部や学校が中心になって「皇国臣民の誓い」を朝鮮人に暗唱させ、天皇への忠誠を強制していました。朝鮮人にとっては何のことかさっぱりわからないことを暗唱させられ、出来なければ厳しい体罰が加えられました。皇軍の支配下では自国の国旗さえ持てず、「日の丸」が押し付けられていました。八・一五解放の日には、この忌まわしい「日の丸」に少し手を加えて太極旗とし、街頭にとびだし朝鮮独立運動を巻き起しました。

朝鮮再侵略を許すな
 一九一九年に朝鮮全土で「三・一独立万歳運動」が巻き起こったのも朝鮮人の独立への執念からであり、最近の青年・学生のたたかいに引き継がれています。

 「三・一万歳運動」は、私が尋常六年のときに起こったと記憶しています。その頃内灘で新聞を取っている家といえば、お寺、お宮、役場ぐらいのもので、一般の家にはありませんでした。私の同級生で木村君の家は小作米を百石ほど取る大農でした。この家でも新聞を取っていまして、木村君が学校に来て「朝鮮人が万歳万歳といって、大騒ぎしとるんといや」といっていたのを覚えています。

 朝鮮にいたとき小作人のなかに足を引きずって歩くおじいさんがいたので「あんた、なんで足を悪くしたんや」と聞いても、本人はなにも言わずにただ笑っているだけでした。その数年後に、近所の朝鮮人から「あのおじいさんは猛烈に『三・一独立運動』をやって、日本の兵隊に大腿を銃剣で刺された」と聞きました。全く武器を持たずに立ち上がった朝鮮人にたいして日本兵は随分むごい弾圧をしたとも聞きました。そのためなんでしょう、大ケガをしたおじいさんはいつでも私達日本人を敬遠していました。私は二〇年間朝鮮にいたのですが、ついに朝鮮人と心からうちとけた話はできませんでした。やっぱり支配する民族と支配され差別されてきた民族の間では、この関係をそのままにしておいて、個人的にうちとけることなど出来るものではありません。

 私が最も恥ずかしいと思っていることは、江景邑にいたときに朝鮮人の徴用に直接協力したことです。江景邑の南町には日本人がたくさん住んでいて、私はその町会長をしていました。月に二回づつ町会長会議があり、そこで町内の配給や上からのいろんな指示が出されました。あるとき道庁から江景邑に、そして南町の町会長である私に「朝鮮人五名を徴用せよ」との指示が来ました。私は事務員と相談して五人の徴用を決定しました。

 敗戟後、すぐにそのうちの一人が帰ってきて「なんであんなところへやったんか」と家に暴れこんできました。私はこわくて、こわくて、日本に引き揚げるまで、隠れるようにしていました。

 最近、朴慶植さんの「朝鮮人強制連行の記録」を読んで、二〇年もの間自分がやって来たことをようやく自覚することができました。

 戦前にこのような生き方をしてきた私は、戦後朝鮮侵略のための米軍試射場反対闘争に全生活をかけ、金沢火電、七尾火電、能登原発反対、さらに三里塚、北富士、関西新空港のたたかいに加えていただき、何とか自分の誇りを取り戻そうとしてまいりました。

 今福田首相や中曽根が「有事立法を」と声だかに叫んでいます。だからこそ私は朝鮮侵略の苦い経験を二度と繰り返してはならないと心から思っています。
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