
『美麗島まで』(与那原恵著)を読む
『北陸中日新聞』に、与那原恵著『首里城への坂道』の書評があり、市立図書館にリクエストし、届くまでに同じ著者による『美麗島まで』を読むことにした。家族史なので、ざっと読めると思ったのだが、重い内容がいっぱい詰まっている歴史ドキュメンタリーだった。
沖縄の祖父母から、父母の時代を経て、自身にいたる家族の歴史を書けば、著者に限らず、例外なく苦難の沖縄史(琉球史)を書くことになるだろう。私たちはまじめに沖縄に向きあわなければならない。印象に残ったところを紹介する。
沖縄人(琉球人)が琉球王朝を美化する傾向に対して、与那原恵は釘を刺している。
「離島の民謡には、琉球王国時代の王府の税の取り立ての厳しさや、首里からやってきた士族の横暴ぶりがうたわれているものが少なくない。琉球王国時代、離島の島民は15歳から50歳まで人頭税という税を払わなければならず、その税負担は『八公二民』といわれ、収入の8割を税として徴収されたというほど過酷だった。女性たちも貢納のための機織りに、1日の大半を費やしたという」。
「私の友人に白保(石垣島)出身の若き民謡の歌い手がいる。彼の現在の活動拠点は那覇だが、どんなに頼まれても、島民を苦しめた権力機構の象徴である首里城で歌うイベントには参加しないと決めている」と、冷静に見ている。
そして、沖縄と台湾の関係も、著者は割り引かずに見据えている。日本の沖縄政策の過程で、沖縄の人々が台湾に渡り、台湾統治の片棒を担がされていたことについても、著者は苦々しく書いている。
さらに、「なぜ台湾の人々が石垣にやってきたのでしょう」と自問し、台湾総督府(日本政府)が台湾の砂糖産業やパイナップル栽培を育成するために、大手資本が台湾の農民から農地を買い占め、土地を奪われた台湾農民が行き場を失って、沖縄・八重山地方に渡ってきたと、答えている。
在台中に、赤嶺新助はスパイ容疑で台湾刑務所に収監され、その後「中国帰化」、「琉球独立」を掲げて、琉球青年同志会を結成した。敗戦直後の与那国島では台湾帰属論が盛り上がっていた。「終戦後の社会混乱や生活の低迷により、島は無政府状態に陥っており、見通しがつかない状態だ。与那国としては、これを立て直すには、戦前から経済、漁業活動が同一圏内にあった台湾に早急に帰属し、民心を安定させ、経済を復活させたい。よって、台湾への帰属を陳情する」という請願書を台湾に出そうとしたが、米軍に阻止された。沖縄本島でも、沖縄独立を真摯に語り合っていた沖縄民主同盟が活動していた。
このように沖縄では、戦前の日帝、戦後の米軍支配のもとであえぎながら、日本からの離脱を模索していた人々が数多くいたのである。
大田昌秀さんは次のように書いておられる
沖縄の独立論がじわじわと浸透しつつあります。ゴザ市長を務めた大山朝常氏は「沖縄独立宣言」という本を刊行し、「ヤマトは帰るべき祖国ではなかった」と痛烈に批判しています。また、ハワイやアメリカ本国などで勉強した若い女性たちが国連に訴える行動をしたり、シンポジウムに登場するなどして注目を浴びています。つい最近、沖縄の学会においても「琉球民族独立総合研究学会」が設置され、シンポジウムを開催するなどしていて今後こうした運動がどういう展開をみせるか、大方の関心を呼んでいます。(2013年6月21日)
沖縄に犠牲と矛盾を差別的に集中させる日本(アメリカ)に対して、沖縄には分離独立の自由はあるし、私たち(本土)はその要求に立ちはだかることは許されない。本土に住む日本人(私)は沖縄の歴史(沖縄独立論)について、過去に遡って学ぶ必要があると感じた。
『北陸中日新聞』に、与那原恵著『首里城への坂道』の書評があり、市立図書館にリクエストし、届くまでに同じ著者による『美麗島まで』を読むことにした。家族史なので、ざっと読めると思ったのだが、重い内容がいっぱい詰まっている歴史ドキュメンタリーだった。
沖縄の祖父母から、父母の時代を経て、自身にいたる家族の歴史を書けば、著者に限らず、例外なく苦難の沖縄史(琉球史)を書くことになるだろう。私たちはまじめに沖縄に向きあわなければならない。印象に残ったところを紹介する。
沖縄人(琉球人)が琉球王朝を美化する傾向に対して、与那原恵は釘を刺している。
「離島の民謡には、琉球王国時代の王府の税の取り立ての厳しさや、首里からやってきた士族の横暴ぶりがうたわれているものが少なくない。琉球王国時代、離島の島民は15歳から50歳まで人頭税という税を払わなければならず、その税負担は『八公二民』といわれ、収入の8割を税として徴収されたというほど過酷だった。女性たちも貢納のための機織りに、1日の大半を費やしたという」。
「私の友人に白保(石垣島)出身の若き民謡の歌い手がいる。彼の現在の活動拠点は那覇だが、どんなに頼まれても、島民を苦しめた権力機構の象徴である首里城で歌うイベントには参加しないと決めている」と、冷静に見ている。
そして、沖縄と台湾の関係も、著者は割り引かずに見据えている。日本の沖縄政策の過程で、沖縄の人々が台湾に渡り、台湾統治の片棒を担がされていたことについても、著者は苦々しく書いている。
さらに、「なぜ台湾の人々が石垣にやってきたのでしょう」と自問し、台湾総督府(日本政府)が台湾の砂糖産業やパイナップル栽培を育成するために、大手資本が台湾の農民から農地を買い占め、土地を奪われた台湾農民が行き場を失って、沖縄・八重山地方に渡ってきたと、答えている。
在台中に、赤嶺新助はスパイ容疑で台湾刑務所に収監され、その後「中国帰化」、「琉球独立」を掲げて、琉球青年同志会を結成した。敗戦直後の与那国島では台湾帰属論が盛り上がっていた。「終戦後の社会混乱や生活の低迷により、島は無政府状態に陥っており、見通しがつかない状態だ。与那国としては、これを立て直すには、戦前から経済、漁業活動が同一圏内にあった台湾に早急に帰属し、民心を安定させ、経済を復活させたい。よって、台湾への帰属を陳情する」という請願書を台湾に出そうとしたが、米軍に阻止された。沖縄本島でも、沖縄独立を真摯に語り合っていた沖縄民主同盟が活動していた。
このように沖縄では、戦前の日帝、戦後の米軍支配のもとであえぎながら、日本からの離脱を模索していた人々が数多くいたのである。
大田昌秀さんは次のように書いておられる
沖縄の独立論がじわじわと浸透しつつあります。ゴザ市長を務めた大山朝常氏は「沖縄独立宣言」という本を刊行し、「ヤマトは帰るべき祖国ではなかった」と痛烈に批判しています。また、ハワイやアメリカ本国などで勉強した若い女性たちが国連に訴える行動をしたり、シンポジウムに登場するなどして注目を浴びています。つい最近、沖縄の学会においても「琉球民族独立総合研究学会」が設置され、シンポジウムを開催するなどしていて今後こうした運動がどういう展開をみせるか、大方の関心を呼んでいます。(2013年6月21日)
沖縄に犠牲と矛盾を差別的に集中させる日本(アメリカ)に対して、沖縄には分離独立の自由はあるし、私たち(本土)はその要求に立ちはだかることは許されない。本土に住む日本人(私)は沖縄の歴史(沖縄独立論)について、過去に遡って学ぶ必要があると感じた。